『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んでみたが…2020年10月13日

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー/大塚久雄訳/ワイド版岩波文庫)
 今年はマックス・ヴェーバー没後100年だそうで、書店にヴェーバーに関する新書が積まれている。それを眺め、いずれ読まねばと気がかりな古典のひとつが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だと思い出した。意を決して歯ごたえのありそうな古典に挑んだ。

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー/大塚久雄訳/ワイド版岩波文庫)

 本書を入手したのはかなり昔である。未読のまま時が流れたのは、あえて読まなくても内容がわかった気になっていたからである。解説書などには「プロテスタントの禁欲と勤勉が資本主義の成立と発展に寄与した」と説いた本だとあり「なるほど」と納得し、タイトルがそのまま内容を表していると思った。

 その気がかりだった本書を読了して、肩すかしにあった気分になった。さほどわかりやすい内容ではない。歯ごたえがあったというより歯が立たない箇所も多く、読了したというより本文を撫でただけと言った方がいい。とは言え、本書の骨子は読む前に想定した通りで、「プロテスタントの禁欲と勤勉が資本主義の成立と発展に寄与した」ということだけを語っていると思えた。その論拠を緻密に延々と述べていて、論旨を追っていくのが大変なのである。

 資本主義の成立を論じた社会経済学的な内容を想定していたが、キリスト教を論じた宗教社会学の書だと感じた。キリスト教や神学に関する素養のない私は議論についていくのが難しかった。

 冒頭の問題提起でベンジャミン・フランクリンの考え方を事例に取り上げているのはわかりやすくて面白く、惹きつけられた。しかし、その後は私の知らない宗教者の名前が頻出し、キリスト教や宗教改革に関する入り組んだ議論になり、お手上げになった。

 著者自身が「教理について少しばかりの考察をおこなうことは、神学になじまない読者には厄介であり、神学上の教養のある人々には急ぎ足すぎて表面的と思われるにちがいない。が、止むをえない。」とことわったうえで緻密な議論を展開している。それは、神学に縁のない私にとっては関心外の議論であり、読み飛ばしがちになる。

 そうは言うものの、近代西欧社会のバックボーンであるキリスト教の大きさをあらためて認識した。いつの日か気が向いたら、宗教改革史や神学について多少の勉強をしたうえで本書を精読・読解すれば、宗教社会学の面白さを堪能できるかもしれない。

 本書のわかりにくさの一端は「資本主義の精神」という言葉にある。資本家、労働者、社会主義者という言葉に対応した「資本家の精神」「労働者の精神」「社会主義者の精神」ならイメージできる。だが「資本主義者」がイメージしにくいように「資本主義の精神」がわかりにくい。おそらくエトースというもので、それを追求するために著者は宗教を駆使しているのだと思う。

 その「資本主義の精神」に関して、本書の末尾はやや唐突で、衝撃的ですらある。精神の失われる未来を次のように述べている。

 「こうした文化発展の最後に現れる「末人たち」》letze Menschen《にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。――」

 やはり、終章だけでも、いずれ精読・読解したくなる。

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