吉備真備は直接史料のない人物2020年07月31日

『吉備真備』(宮田俊彦/人物叢書/吉川弘文館)
 ‫いま、吉備真備が小さなマイブームなのだが、歴史概説書、小説、テレビドラマ、漫画では吉備真備の全体像を把めた気がしない。で、次の本を読んだ

 『吉備真備』(宮田俊彦/人物叢書/吉川弘文館)

 日本歴史学会編集の「人物叢書」の1冊である。新本で入手したが、1961年刊行のかなり古い本の新装版で、研究者の専門的著作に近い。

 本書の「はしがき」で著者は次のように述べている。

 「吉備真備については、不思議なことに直接史料が殆どない。(…)高名天下に轟く真備であるにも拘わらず、この人に関する研究が余りない。単行本も研究論文も、その数が多くない理由であろう。」

 そんな事情だと初めて知った。ネット検索しても一般向けの手頃な本が見つからなかったわけだ。本書は、数少ない間接史料を紹介しながら、先行研究者の説を検討しつつ著者の見解を述べている。史料が少ないせいで、吉備真備の生涯をたどる評伝とは言い難い。真備に関連する史料を収集整理した生涯の点描に近い。

 本書は以下の5つの章で構成されている。

  第1 真備の出自
  第2 虚往盈帰
  第3 広嗣の乱
  第4 再度の入唐
  第5 大宰府の真備
  第6 右大臣吉備真備

 第6の分量が全体の4割に近いのは史料の多寡の反映だろう。第2の「虚往盈帰(きょおうえいき)」は難しい言葉だ。広辞苑にはないし、ググっても出てこない。この章は留学生として唐に渡った真備を扱っていて、「入唐する前はカラッポで、唐に行ってよく学んで頭一杯学問を充実させて帰って来た」ということを表す言葉が虚往盈帰なのである。

 本書に引用されている史料の文章は私には難しく、十分に理解できたわけではないが、著者が描く真備像はなんとなく把めた。著者は本書の末尾で真備の生涯を5期にわけて整理している。略述すれば以下のようになる。

 第1期 誕生(695年)~22歳
  下級武官の子に生まれる。成績優秀で入唐を命ぜられる。
 第2期 23歳~41歳 留学期間
  学習は多方面に及び、帰国に際して多くの漢籍を持ち帰る。
 第3期 41歳~55歳
  官位の昇進、目覚ましい限り。
 第4期 56歳~70歳
  大宰府に左遷。57歳で遣唐副使として再び入唐、60歳で帰国。
  平城京に戻るも、すぐに大宰府。主に軍事方面に才能を発揮。
 第5期 70歳~81歳で死去(775年)
  造東大寺長官として帰京。恵美押勝の乱で軍学用兵の妙を発揮。
  参議を経て右大臣(72歳)。77歳で辞め、81歳で死去。

 真備が留学を終えて帰国してから逝去までの40年は、権力者の浮沈がくり返される激動の時代だった。権勢にあった藤原家の四子が天然痘で死去、代って橘諸兄が勢力を伸ばし、藤原広嗣が乱を起こすも敗死、やがて藤原仲麻呂が台頭し橘諸兄は力を失い、諸兄の子・奈良麻呂が仲麻呂を除こうとするも失敗、その仲麻呂(恵美押勝)も道鏡の台頭で力を失い、乱を起こして敗死、だが道鏡も没落する。そんな転変の40年間、真備は権力の中枢に近い場所で無事に生き延び、天寿をまっとうしたのである。

 真備は儒学者だが、主に軍学の才で評価されたようだ。その軍学の内容は、私にはよくわからない。詩歌の才はなかったらしい。この時代の史料として、要人が万葉集や懐風録に残した詩歌が引用されることが多い。だが、万葉集にも懐風録にも真備の作品はない。

 著者は真備の人物像を次のように推測している。

 「真面目な、文字通り穏健な人であった(…)政治家としては極めて地味であって、華々しい活動をしない。(…)功績がない、というのでは断じてなく、改革や変動には不向きな人であった(…)詩文の方にではなく、いわば実学の方に力を注いだと思われる。(…)生涯を通じての謙遜な努力家であった」

 こんな地味そうな人物は歴史小説の主人公には不向きに思える。テレビドラマ『大仏開眼』が吉備真備を主人公にしたのは、なかなかのチャレンジだったと思う。

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