『遣唐使』(東野治之)に波斯人李密翳への言及があった2020年07月20日

『遣唐使』(東野治之/岩波新書/2007.11)
『奈良の都(日本の歴史 3)』(青木和夫)などで頭が奈良時代モードになり、次の新書も読んだ。

 『遣唐使』(東野治之/岩波新書/2007.11)

 遣唐使については『奈良の都』でも相応のページを割いた説明があった。留学僧・玄昉や渡来波斯人を描いた松本清張の『眩人』の背景をもう少し詳しく知りたいと考え、この新書読んだ。

 研究者の著作なので各種史料をベースに遣唐使の実態を描いていて、著者の見解や発見も紹介している。門外漢の私には興味深い内容だった。

 著者は本書で遣唐使のダブルスタンダードを指摘している。遣唐使は朝貢であり、唐は日本を属国視していた。日本はそれを承知していながらも独立国かのようにも振る舞っている。日本が遠い島国だったので、そんなあいまいな状態が可能だったようだ。日本の国際関係上の特殊な条件は古代から現代まで変わらず、そのせいで日本の統治者に外交センスが欠如している――著者はそう述べている。

 私が関心のある中国人以外の渡来人については次の記述がある。

 「インド僧菩提僊那、ベトナム(林邑)僧仏哲、ペルシア(波斯)人李密翳などが有名で、そほかにも鑑真一行の中に、イラン(胡国)人安如宝、インドシナ・インドネシア(崑崙)人軍法力がいる。」

 松本清張が題材にした李密翳は有名なようだ。波斯人と胡人がどう違うのかはわからないが、鑑真一行のなかに「安」姓の人物がいたと知り、ソグド人の影を見た気になった。著者は、これらの人々は混血が進んでいた可能性もあり「イラン人だから碧眼と決めてかかるのは避けるべきだろう」と述べている。

 また、本書の終章「日本文化の形成と唐文化」で、著者が日本の鎖国性に言及しているのが印象に残った。古代における唐文化の受容は明治維新後の欧風化以上に急速な唐風化だったが、それは「選択的受容」であり、道教や宦官は受け容れなかった。日本が大陸から遠い自給自足可能な島国だから、海外から強い影響を受けながらも、その影響から解放されることもできた。それを、著者は「潜在的な鎖国体質」とし、近年の日本史の学界で強調される「開かれていた日本」論に疑義を呈し、次のように主張している。

 「歴史の大局から見れば、それ(「開かれていた日本」論)に偏ると日本が本質的に持つ鎖国体質に目をつむってしまうことになる。歴史を将来に役立てる意味でも、むしろ日本の鎖国性こそ自覚されるべきであり、それはいくら強調してもし過ぎることはないだろう。」

【蛇足】
 2007年刊行の本書に1965年刊行の『奈良の都 日本の歴史 3(青木和夫)』に言及した箇所がある。遣唐使には北路、南路、南島路があるとされているが、本書の著者・東野治之氏は「青木和夫氏が早くに南島路の存在を否定されていたのは、炯眼というほかはない(『日本の歴史 三)」と述べている。だが、最新の『詳説日本史図録(山川出版社)』にも、北路、南路、南島路が明記されている。

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