「内田百閒」の世界は不気味でとぼけた異世界2020年03月10日

 『内田百閒』(内田百閒 1889-1971/ちくま日本文学001/筑摩書房)
 最近は古本も新刊も手軽にネットで買えるので、ぶらりと書店に入って当てもなく棚を眺めることが減った。だが、駅前の本屋が廃業になっては困るので時には目的もなく本屋に入り、のんびりと棚を物色する。その折に目について購入したのが次の本である。

 『内田百閒』(内田百閒/ちくま日本文学001/筑摩書房)

 ちくま文庫の1冊と思って手にしたが、どこにも「ちくま文庫」の表記はなく「ちくま日本文学」とある。これは文庫版の文学全集の1冊である。

 書店で日本文学全集や世界文学全集を目にすることがなくなったので、文庫本の棚に並んだ40冊の文庫版文学全集を見たときには新鮮な気分になった。1巻1作家で、作家名だけが大きく書かれた背表紙が並んでいるのは圧巻である。40人の日本人作家の人選がユニークで、第1巻から第40巻までの順序の根拠もよくわからない。時代順ではないし、純文学作家、大衆作家、詩歌作家といった分野別でもない。

 一番左端に置かれた第1巻が「内田百閒」なのにも驚いた。さほどメジャーとは思われない内田百閒が日本文学全体に君臨しているような超現実的な不思議な気分になり、ついその1冊に手が伸び、購入した。

 内田百閒の作品は、約30年前に人に薦められて短篇「サラサーテの盤」を読んだことがあるだけで、その時の印象は最早おぼろだ。この小説が鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』の原案だということは、小説を読んだときに気付いた。いまでは小説の印象と映画の印象が混濁している。

 本屋の店頭で手にした『内田百閒』には短篇小説と随筆36編が収録されていて、その中には「サラサーテの盤」もある。巻頭の「花火」から巻末の「特別阿房(あほう)列車」までを順番に読み終えて、浮世離れした異世界を旅してきた気分になった。

 前半が小説で後半が随筆のようだが、その境界はあいまいである。小説は随筆のようであり、随筆は小説のようでもある。小説の多くは夢日記の趣があり、不気味で幻想的である。私には「花火」「件」「波止場」「大宴会」「東京日記」「サラサーテの盤」面白かった。

 随筆には借金話が多い。借金への果てしない考察は作者が借金に苦労しながらもそれを楽しんでいるように見える。「私と云うのは、文章上の私です。筆者自身のことではありません。」という書き出しの文章が随筆風なのは人を食っている。「きままな旅」を綿密に「計画」する話もとぼけている。

 内田百閒の奇妙な魅力を再認識した。

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