歴史の地層を感じる国……チュニジア紀行記(1)2019年12月03日

◎カルタゴがあった国

 この11月下旬、チュニジアの世界遺産を巡るツアーに参加した。私の目当てはカルタゴやローマの遺跡見学である。かつてはローマ帝国領だった北アフリカにはローマ時代の遺跡が多く残っていると聞いていたので、いつかは訪問したいと思っていた。また、古代ローマへの関心から、ローマに滅亡させられた通商国家カルタゴも私には興味深い存在である。

◎巨大建築物を残したローマ

 ローマ時代の遺跡としては「ザグーアンの水道橋」「エルジェムの円形闘技場」「アントニヌス帝の共同浴場」「ドゥッガの遺跡」などの巨大建築物を見学し、その威容を堪能した。多くの石材が後世のイスラムのモスク建築のために持ち去られたそうだが、それでも往年を偲べる姿は残っている。

◎カルタゴ遺跡とローマ遺跡の向き

 事前にわかっていたことではあるが、カルタゴの遺跡は少ない。ローマによって紀元前146年に徹底的に破壊し尽くされたからである。それでも、ピュルサの丘にはローマ時代の遺跡の合間にカルタゴ時代の遺跡が残っている。

 この遺跡で興味深かったのは、二つの遺跡の向きがズレている点である。カルタゴ人は海に向かって(適当に?)建てたのに対し、ローマ人は東西南北にこだわって建てている。ローマ人らしさを感じた。

◎意外に小さく感じたカルタゴ軍港

 古代カルタゴの軍港と商業港の跡も残っている。この二つの港を上空から眺めた写真を事前に読んだ本で見たことがあり、期待していた。だが、軍港跡は想像していたよりは小さな池のような場所だった。上空から展望する場所があると思っていたのだが、あの写真は航空写真だったようだ。

◎現代のカルタゴは高級住宅街

 私たちは「カルタゴ」という言葉でポエニ戦争で敗れた都市国家を思い浮かべる。だが、かつて都市国家があった場所は現在もカルタゴという地名であり、カルタゴはチュニス郊外の高級住宅街である。

 だから「カルタゴの遺跡」という言葉はカルタゴ地区にある遺跡という意味になり、その大部分はローマ時代の遺跡になる。ハンニバルらが活躍した頃の遺跡を示すには「古代カルタゴの遺跡」「カルタゴ人の遺跡」「ポエニ人の遺跡」などと言わなければならない。

 この地の紀元前からの歴史を振り返ると、「原住民(ベルベル人)」→「カルタゴ」→「ローマ」→「ヴァンダル人」→「ビザンチン」→「アラブ(イスラム)」と変遷している。アラブの時代になってからもオスマン・トルコの支配下に入ったりフランスの植民地になったりしている。

 ひとつの場所の歴史の地層は複雑である。この地にはいろいろな時代の記憶が堆積している。現地を訪れて、そんな感慨を抱いた。

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