内陸アジアの歴史は「接触と混合」2019年07月22日

『内陸アジア史の展開』(梅村坦/世界史リブレット/山川出版社)
 『中央アジアの歴史』(間野英二/講談社現代新書)に続いて次の冊子を読んだ。

 『内陸アジア史の展開』(梅村坦/世界史リブレット/山川出版社)

 本書によって『中央アジアの歴史』で得た朧のようなイメージが多少整理できた。間野氏の新書本の刊行が1977年、梅村氏のリブレットの刊行はソ連崩壊後の1997年である。

 「中央アジア」と「内陸アジア」は似た言葉だが、後者の方が広い範囲を示すことが多いらしい。著者は本書において「内陸アジア」を「東は大興安嶺、西はカスピ海、北はバイカル湖を通る北緯55度のライン、南は崑崙山脈の北緯35度線」としている。現在の国で言えば、ロシアの一部、中国の一部、モンゴル、カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスになる。

 現在、この地域にはおよそ1億人が住んでいて、漢族(1500万以上)、ロシア人(2000万以上)を除いた約6000万人の概略内訳は次のようになるそうだ(概略数なので合計が6000万人を超えている)。

  トルコ系  5000万人
  モンゴル系 600万人
  イラン系  450万人

 圧倒的多数がトルコ系である。これは言語系統による区分けである。混血がかさねられているので顔つきや体型での区分けは難しいらしい。キルギスのようにコーカソイドからトルコ系に変化した人々もいる。

 著者は内陸アジアの文化には「トルコ文化」「イスラーム文化」「仏教」という三つの基層があるとし、それぞれの歴史的経緯を解説している。そのなかでも「トルコ化」と「イスラーム化」がダイナミックで興味深い。

 トルコ系の人々はバイカル湖南方の遊牧民だったが、それが東へ東へと移動・拡大し、ついには小アジアのオスマン帝国になる。トルコ化によって多くの人々の母語がトルコ語に変わっていったのである。

 トルコ化が東から西への動きだったのに対し、イスラム化は西から東への動きだった。

 中央アジアではじめてのイスラーム政権の国はイラン系のサーマーン朝(875年~999年)である。サーマーン朝は遊牧トルコ人奴隷をマムルーク軍団として組織していた。著者は、そのようなサーマーン朝の姿を次のように記述している。

 「北や東のトルコ人勢力を積極的に内部に取り込んで西アジアに輩出させ、西アジアのイスラームをトルコ人世界に押し出す、双方向のポンプのような役割をはたしたことになる。」

 わかりやすくて面白い表現だ。

 この地域の歴史ではチンギス・ハーンの大帝国の印象が強いので、なぜこの地域は「モンゴル化」しなかったのだろうとの疑問がわく。著者によれば、モンゴル人の人口は少なく、モンゴル帝国はモンゴル人だけでによって築かれたのではないそうだ。著者は次のように記述している。

 「モンゴル帝国は、その時期までに展開したユーラシアの遊牧社会とオアシス文明の諸要素、住民をシャッフル(混合、移し換え)して全土を統合した。」

 「双方向ポンプ」と「シャッフル」、内陸アジアの歴史はダイナミックである。次の記述も印象に残った。

 「異文化の接触、混交がいとも容易に起こりうる、それがオアシスの文化というものである。」

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