『世界史の誕生:モンゴルの発展と伝統』はユニークで刺激的2019年06月01日

『世界史の誕生:モンゴルの発展と伝統』(岡田英弘/ちくま文庫)
 モンゴル史関連の本を読んだ流れで、以前から気になっていた次の本を読んだ。

 『世界史の誕生:モンゴルの発展と伝統』(岡田英弘/ちくま文庫)

 2年前に86歳で亡くなった岡田英弘氏はユニークな歴史学者と仄聞しているが、私には本書が初体験である。この文庫本の原著は1992年刊行されている。

 著者は冒頭部分で1206年当時の日本、東アジア、中央アジア、ヨーロッパなどの状況を概説し、続いて次のような衝撃的な宣告をくだす。

 「1206年の春、モンゴル高原の片隅に遊牧民が集まって、チンギス・ハーンを自分たちの最高指導者に選挙した事件は、こうした、東は太平洋から西は大西洋に及ぶ、ユーラシア大陸の国々には、ほとんど知られず、知っていてもたいした関心を呼ぶようなことではなかった。しかし彼らこそ知らなかったが、この事件は、世界史のなかで最大の事件であった。つまりこの事件が、世界史の始まりだったのである。」

 つまり、1206年以前の歴史は世界史とは言えないという主張である。著者によれば、歴史とは文化であり、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みである。文化は人間の集団によって違うから、歴史も人間の集団ごとに違い、人類共通の歴史(世界史)は簡単にには可能にならない。

 その容易ならざる人類共通の歴史という文化が可能になったのが1206年だというのである。かなり明快な見解だと私には思えた。

 だが次の断言には驚いた。

 「世界広しといえども、自前の歴史文化を持っている文明は、地中海文明と、中国文明の二つだけである」

 地中海文明、中国文明以外の多くの文明には歴史という文化要素がないそうだ。ヘロドトスを生んだ地中海文明と、司馬遷を生んだ中国文明の二つだけが歴史という文化を生み出したというのである。他の文明(たとえば日本)も自身の歴史を記述しているように思えるが、それらは対抗的に地中海文明や中国文明の歴史文化を借用してきたにすぎないそうだ。かなり大胆な主張である。

 モンゴルなどの遊牧民に着目する歴史の見方は中華中心史観や西欧中心史観を否定するものだと思っていたので、中華と西欧を特別視する著者の見解に驚いた。

 だが、ヘロドトスも司馬遷も地中海文明、中国文明に制約された独自の歴史という文化を生んだだけで、その二つは混じり合うことのない別物で世界史になり得なかったとも述べている。この見解はなんとなく納得できる。

 1206年のチンギス・ハーン登場以降、中国文明も地中海文明もモンゴル文明に飲み込まれてしまい、二つの文明がつながり、二つの歴史文化が接触する。そこに生れた新たな歴史文化こそが世界史を可能にする歴史文化だというのが著者の見解である。

 1303年、イル・ハーン・カザンのユダヤ人宰相ラシード・ウッディーンが編纂した『集史』を「モンゴル帝国の出現とともに、単一の世界史が初めて可能になったことを明らかに示すのもである。」と著者は評価している。

 以上は本書のおおまかな骨子であり、それに関連したさまざまな指摘や見解が本書には散りばめられている。そのひとつひとつが私には刺激的で。考えさせられることが多い。

映画『ちいさな独裁者』を観て考えたこと2019年06月05日

 第二次大戦末期ドイツでの実話をベースにした映画『ちいさな独裁者』を観た。脱走兵がたまたま見つけた将校の制服を身にまとい、将校のふりをして将校としてふるまうなかで、部隊からはぐれた兵士たちを自身の部下として従わせ、権力をふるっていく話である。

 ニセ将校の制服はズボンが長すぎて合っていない。にもかかわらず、彼は総統の特別任務を負った将校として権力を行使し続けることができ、収容所では脱走兵たちの虐殺を命ずる。

 この映画、はじめのうちは主人公がニセ将校とバレるのではないかという緊迫感が面白いのだが、その面白さが途中から逆転する。彼の部下や周囲の軍人たちの何人かは、彼がニセモノかもしれないと気づいているようなのだ。にもかかわらず、彼に利用価値があると判断してその命令に従っているように見える。 ニセモノゆえのカタチ(制服)に忠実な過激なふるまいが他者を圧倒するというところもある。

 この構造は、「おおきな独裁者」ヒトラー自身にもあてはまる所があるし、現代の政治家の某や某にもあてはまるような気がする。ニセモノだとわかっていて内心では馬鹿にしているのだが、利用価値という時代の空気のせいでニセモノをあたかもホンモノのように扱ってしまう。

 その結果、どうなるか。ニセモノはがホンモノに変貌することもあるかもしれないが、悲惨なことになる可能性が高い。

池澤夏樹氏の『科学する心』は文学的科学エッセイ2019年06月07日

『科学する心』(池澤夏樹/集英社インターナショナル)
 作家で詩人の池澤夏樹氏の次の本を読んだ。

 『科学する心』(池澤夏樹/集英社インターナショナル)

 文学書ではなく科学エッセイである。考えてみれば、彼の単著を読むのはこれが初めてである。新聞や雑誌で池澤夏樹氏の文章を読むことは多いし、彼が編纂した沖縄関連の本を読んだことはある。だが、小説や詩は読んでいない。避けていたのではなく機会がなかったに過ぎない。

 池澤夏樹氏のイメージは文学への造詣が深い「いかにも文学者らしい文学者」である。父親は福永武彦(加田怜太郎)だし、個人で世界文学全集や日本文学全集を編集している。『世界文学を読みほどく』なんていう著書もある。そんな池澤氏が大学では物理学を専攻していたと聞いたことはある。

 本書を読むと池澤氏が科学への造詣も深い科学好きだとわかる。理系出身の小説家は少なくないし、科学と文学は対立するものではない。一人の人間のなかに「科学する心」と「文学する心」の両方がある方が自然だと思う。私自身も「理系」「文系」という言葉や区分けを使うことがあるが、それを人間の分類に使うのは間違いだと思う。

 閑話休題。『科学する心』はまことに文学的な科学エッセイだった。自身の「科学する体験」が語られているだけでなく、自分が書いた小説や詩への言及や引用も多い。科学をテーマに自身の身体を通して人間や人類のありようを考察するというスタイルが科学好き文学者的である。

 12編のエッセイの中で私好みだったのは「進化と絶滅と愛惜」「体験の物理、日常の科学」「『昆虫記』の文学性」の3編である。進化は進歩ではなく人類が今あるのは運がよかっただけという話は歴史の見方に役立つ。科学は知識ではなく五感をもって自然に向き合う姿勢という考えには納得できる。ファーブル vs ダーウィンは興味深い科学史話である。

 本書では多くの科学書が紹介されていて、著者の語り口に乗せられてつい読んでみたくなる。世の中はワクワクさせてくれる本にあふれていそうだが、わが人生にそのすべてを読む時間は与えられていない。

アイスキュロスを読み、ギリシア悲劇の秘めたる力を感じた2019年06月09日

『ギリシア悲劇Ⅰ アイスキュロス』(ちくま文庫)
 新国立劇場で上演されるアイスキュロス原作『オレスティア』のチケットを購入したので、観劇前の準備に次の本を読んだ。

 『ギリシア悲劇Ⅰ アイスキュロス』(ちくま文庫)

 アイスキュロスはギリシアの三大悲劇詩人の一人である。「ギリシア悲劇」という言葉に一定のイメージをもっているが、私はこれまでにギリシア悲劇を観たことも読んだこともなかった。チケット購入の動機には、これを機会に「ギリシア悲劇」を読もうと思ったこともある。

 本書には次の作品が収録されている。

  縛られたプロメテウス(呉茂一訳)
  ペルシア人(湯井壮四郎訳)
  オレスティア三部作
    アガメムノン(呉茂一訳)
    供養する女たち(呉茂一訳)
    慈しみの女神たち(呉茂一訳)
  テーバイ攻めの七将(高津春繁訳)
  救いを求める女たち(呉茂一訳)

 アイスキュロス(BC525-456)は「歴史の父」ヘロドトスよりは年長の人で、90の作品を書いたそうだが、本書収録の7作品しか現存していない。

 『オレスティア』は全三部作が残っている。他の4つはそれぞれ三部作の中の1編が残ったものである。当然のことながら『オレスティア』が最も印象深いが、他の作品も古代の原初的な演劇の様子を偲ぶことができて興味深い。

 私がイメージするギリシア悲劇のイメージはソポクレスの『オイディプス王』であり、それはさまざまな引用文や映画(パゾリーニの『アポロンの地獄』、松本俊夫の『薔薇の葬列』)などの雑多な情報で形作られている。

 今回、アイスキュロスの作品を読んで、ギリシア悲劇がコロスという合唱で成り立っていることを改めて認識した。そして、ゼウスをはじめとするさまざまな神々の大きな役割を知った。ギリシア悲劇は神話や伝説をベースにした話が多いが、そこに登場する神々はいかにもギリシアらしく人間的である。神々は、敬ったり畏れる対象というよりは劇中の登場人物になり切っている。

 観劇予定の新国立劇場の『オレスティア』は、アイスキュロスの原作を元に現代の作家が再構成した作品だから現代劇かもしれない。それはそれで楽しみではあるが、本書を読むと古典的なギリシア悲劇の舞台を観たいと感じた。

 ギリシアで活躍したアイスキュロスは何度かシチリアを訪問し、シチリアのジェーラで没している。私は昨年シチリア旅行をし、ジェーラにも行った。多くのギリシア劇場遺跡も観光した。あんな劇場で仮面のコロスたちが繰り広げる舞台を想像すると、現代も紀元前5世紀もさほど変わりない気がしてくる。

 本書を読んで感じたのは、ギリシア悲劇は、そのまま演じてもいいだろうが、その悲劇にインスパイアされて新たなものを作り出す力を秘めているということである。この二千数百年の間多くの人がインスパイアされてきたはずだ。

ロバート・アイク翻案の『オレステイア』に感心2019年06月12日

 新国立劇場中劇場で『オレステイア』(原作:アイスキュロス、作:ロバート・アイク、演出:上村聡史、出演:生田斗真 他)を観た。ギリシア悲劇を英国の若い作家が翻案した舞台である。

 チラシの印象で設定を現代に変えた舞台を想像していたが、そう単純ではなかった。シンプルな舞台装置はややや抽象的な空間を構成している。時代を特定しがたい物語世界と現代と思われる世界とを往来する舞台だった。時間を超越した舞台に、芝居を上演しているリアルタイムの時間が流れ込んでくる仕掛けになっている。

 そんな不思議な舞台に確かにギリシア悲劇の空間を感じることができた。新国立劇場中劇場は客席が扇形の階段になっていて「中劇場」と言っても客席は千ぐらいはあり、ギリシアの屋外劇場の雰囲気もある。青空の下ではないが、かすかに古代の空気を感じた。

 私は昼の部に行ったが開演13時で終演は17時20分、途中20分の休憩が2回入るが実質3時間40分とかなり長い芝居である。でも退屈はしなかった。古代ギリシアの人々はもっともっと長い時間を観劇に費やしたのだと思う。

 観劇の直前にアイスキュロスの『オレステイア三部作』を読んでいたので、この舞台によってアイスキュロスの世界への理解が深まった気がした。と言っても、テイストは原作とかなり異なる。

 原作ではさほどに感じなかった「戦争」と「家族」がこの舞台では印象深い。いつの時代にも重要な普遍的テーマだと再認識した。原作では実在の人物であるオレステイアの姉エレクトラ(エレクトラ・コンプレックスの元になった人物)をオレステイアの心の中にだけ存在する幻想に変更しているのには驚いた。作家の才能を感じる。

 「エレクトラは幻想の存在」という点をふくらませれば、より興味深い芝居になりそうに思えるが、それでは原作からかけ離れすぎてしまうだろう。ギリシア悲劇にインスパイアされる作家はいつの時代になっても存在することを確認し、2500年の時間の長さと短さを感じた。

『シルクロードと唐帝国』の主役はソグド人2019年06月15日

『シルクロードと唐帝国』(森安孝夫/講談社学術文庫)
 杉山正明氏や岡田英弘氏の著作で「世界史」におけるモンゴル帝国の重要性を知り、その関連で次の本を読んだ。カバーに「中央ユーラシアの草原から中華主義と西洋中心史観の打倒を訴える論争の書」とあり、それに惹かれたのである。

 『シルクロードと唐帝国』(森安孝夫/講談社学術文庫)

 本書は約10年前に刊行された『興亡の世界史』シリーズを文庫化したもので、原著は2007年の刊行である。

 「あとがき」によれば著者の最初の一般向け概説書だそうだ。著者も認めているように概説書にしては高度である。シルクロードや唐帝国について一通りの知識がある人を対象にした研究報告の趣がある。私には未知の固有名詞が頻出し、読了に2週間以上を費やしたが、力の入った読み応えのある面白い歴史書だった。

 自分の中の中国史の印象をさぐってみると、いかにも中国らしい中国は大唐帝国のイメージである。李白や杜甫がいた時代、鑑真の出身地、阿倍仲麻呂が客死した地、玄奘三蔵が西に旅した時代、唐三彩を生み出した時代……これぞ「中国」である。

 最近になって、隋や唐は遊牧民である鮮卑系の拓跋部がひらいたとの知識を得て「へぇー」と思った。本書は隋建国以前の北朝、南朝から唐が衰退までの時代を中央ユーラシアの視点で描いている。私には不鮮明だった時代と地域のイメージが少しクリアになった。

 先月読んだ高校世界史の参考書で北方騎馬民族「鮮卑、柔然、突厥、ウイグル」の時代順と名称の記憶術を知ったが、本書によってその興亡の内実をかなり把握できた気がする。

 だが、本書の主役は鮮卑、柔然、突厥、ウイグルでも唐でもなく、そのすべてに絡むソグド人である(本書の表紙写真はソグド人の泥俑)。アラル海に注ぐシル河とアム河にはさまれたソグディアナを故郷として広範なシルクロード地帯で活躍したソグド商人の実態を描出したのが本書の眼目である。ウルムチの博物館に眠っていたソグド語の文書を著者とその友人(吉田豊:京大教授)が解読するシーンなどは圧巻だ。12世紀頃には他の民族に融解していったソグド人への興味がわいた。

 また、本書によって「シルクロード史観論争」なるものを知った。西欧の学者が名付けた「シルクロード」という言葉とその実態をどうとらえるかという学者間の論争である。一般人である私は「シルクロード」という言葉にロマンを感じるし、その雰囲気が好きである。

花園神社で往年のテント芝居『蛇姫様』を観た2019年06月17日

 新宿・花園神社境内で新宿梁山泊のテント芝居『蛇姫様 わが心の奈落』(作:唐十郎、演出:金守珍)を観た。1977年に状況劇場・紅テントで上演された芝居である。

 私は1977年に青山墓地の紅テントで『蛇姫様』を観ている。社会人5年目で、私が観た状況劇場の芝居ではかなりの後期になる。客演・清川虹子という意外性を憶えているだけで内容は失念している。

 新宿梁山泊の芝居を観るのは初めてである。『蛇姫様』を観ようと思ったのは出演者に大久保鷹と大鶴義丹の名があったからだ。

 往年の紅テントの怪優・大久保鷹の姿は、昨年末「Space早稲田」でほぼ半世紀ぶりに観た。元気なうちにもっと舞台上の姿を観ておこうと思った。唐十郎と李礼仙の血を引く大鶴義丹が父親の芝居をどう演ずるかにも興味がわいた。

 そんな役者への関心とは別に、観たはずなのに内容が頭に残っていない芝居を再度観れば記憶がどの程度よみがえるだろうという、己の頭への関心もあった。

 で、2時間50分の観劇の結果、悲しいかな記憶のよみがえりはほとんどなかった。初めての芝居を観ている気分だった。とは言え、現代の若い役者が往年の役者のイメージに重なってくる。この役は根津甚八だった、この役は李礼仙だったとわかる。清川虹子が演じた役もわかるし、大鶴義丹が往年の唐十郎の役を演じているのもわかった。その他はよくわからなかった。

 帰宅して古い記録(『写真集 状況劇場全記録』)を調べてみると、今回、大久保鷹が演じたのは1977年の天竺五郎の役で、往時の『蛇姫様』に大久保鷹は出演していない。すでに状況劇場を退団していたのだと思う。

 でも、年は取っても大久保鷹にはいまもフワリ・ニヤリとした独特の雰囲気がある。

 今回の台本が往時の台本にどの程度忠実なのかは知らないが、在日韓国人の「帰化」が明確に芝居のベースにあるのが意外だった。李礼仙を擁する状況劇場が1970年前後の日韓の問題にさらされていたことは知っていたつもりだが、「帰化」という言葉が『蛇姫様』のキーワードになっていたことをまったく失念していた。

 また、この芝居が紅テントらしいカタルシス的盛り上げでラストにもっていくという単純な形になっていないように感じられのも意外だった。

定価にビックリの『ソグド商人の歴史』をリングサイド読書2019年06月19日

『ソグド商人の歴史』(E・ドゥ・ラ・ヴェシェール/影山悦子訳
◎今年の2月刊行の翻訳書

 ソグド商人に関する次の翻訳書を読んだ。一般向け概説書ではなく研究者が研究成果を著した本である。

 『ソグド商人の歴史』(E・ドゥ・ラ・ヴェシエール/影山悦子訳/岩波書店)

 原著は2004年にフランスで出版され、今年の2月に訳書が出た。本書を読もうと思ったのは『シルクロードと唐帝国』(森安孝夫/講談社学術文庫)を読んでソグド商人に関心を抱いたからである。以下に紹介する同書の記述も本書を読む大きなきっかけになった。

◎日本人研究者が先を越された研究書

 『シルクロードと唐帝国』はソグド人の歴史を正面から取り上げた書だった。著者・森安孝夫氏はソグド史研究における日本人研究者の大きな業績を紹介し、最近の中国におけるソグド学の隆盛に言及した上で、次のように述べている。

 「さらにショッキングな出来事は、2002年に『ソグド商人の歴史』と題するフランス語の書物がパリで出版され、しかもその執筆者がE=ドラヴェスィエールというフランスの若手研究者だったことである。本来なら、このような単行本はまず日本で出版されてしかるべきであるのに、完全に先を越されてしまった。その書物には我々に未知の情報も数多く含まれている。しかしながら、相当部分はすでに日本の先行研究で尽くされていることをまとめた感がいなめず、しかも本人は日本語が読めないため、我が国の多くの先行研究を見落としている」

 森安氏ら日本の研究者は著者と接触し、そのアドヴァイスが2004年の改訂版には、ある程度反映されているそうだ。その顛末を述べたうえで森安氏は次のように結んでいる。

 「今後の欧米におけるソグド商人の研究は、日本語の幾多の業績を参照することなく、本書を中心に動いていくことであろう。残念ながら、これが日本史を除く世界の歴史学界の現実であるが、最先端の水準さえ保っていればいつか報われるであろう」

 西洋中心史観の打倒を目指す森安氏のくやしさが伝わってくる。

◎エイヤッと注文した本

 『ソグド商人の歴史』原著の改訂版が出たのが2004年、森安氏の『シルクロードと唐帝国』の原著が出たのが2007年、それから10年以上経ってやっと『ソグド商人の歴史』の翻訳が出たのである。

 本書を購入しようとネット検索し、その定価に驚いた。「18,500円+税」である。その高額に躊躇した。定価が高いのは発行部数が少ないということであり、限られた読者しか見込めない高度な専門書に思えたのだ。店頭で手に取って検討しようとも思ったが、エイヤッとネットで注文した。

 『ソグド商人の歴史』はハードカバーで約400ページ、索引・注・参考文献が約100ページだから本文は約300ページ、さほど大部な本ではない。訳文のおかげもあり、読みやすい。

 私は門外漢なので本当は概説書を享受したいのに、行きがかりで本書を読むことになった。だから、研究者の研究者相手の論述を場外から覗き見する気分で本書を読んだ。

 もとより論を検証する素養などないので、飛ばし読みに近い読み方で、研究者はこういう風に論証するのかと論の進め方を眺め、その結論らしき箇所だけをチェックしながら読み進めた。意外に面白かった。

◎すでに概説書を読んでいたと気づく 

 想定した以上に面白く本書を読了できたのは、直前に森安氏の『シルクロードと唐帝国』を読んでいたおかげである。『シルクロードと唐帝国』を読んでいるときは、やや専門的すぎて難しいと感じることも多かったが、振りかえってみれば『シルクロードと唐帝国』はソグド商人の歴史に関する概説書だったのだ。

 概説書で一通りの知識を得たうえで専門書を読む、はからずもそんな王道読書であったと気づいた。

◎歴史研究者は大変だ

 また、本書を読んで歴史研究とは大変な作業だとあらためて認識した。歴史研究者の前にあるのは過去の文書や碑文などの文字情報と発掘された考古学的遺物の二つである。それが少な過ぎては困るだろうが、多過ぎても大変だと思う。研究するにはソグド語、ウイグル語、漢字、ペルシア語など関連するさまざまな言語を解読できなければならない。そんな基本材料を十分にそろえたうえで推理を展開するのである。気の遠くなるような作業だ。

 研究者の成果を日本語で読んで「面白い」とか「つまらない」と言っていればいい私のような一般人は気楽である。『ソグド商人の歴史』をリングサイド気分で読んで、そう感じた

神奈川芸術劇場で『ゴドーを待ちながら』を観た2019年06月20日

 神奈川芸術劇場で『ゴドーを待ちながら』(演出:多田淳之介)を観た。20世紀を代表するあまりに高名な芝居である。ベケットがノーベル文学賞を受賞したのは1969年、川端康成受賞の翌年で私が大学生の頃だ。

 学生の頃に戯曲を読み舞台写真も眺め、それだけで芝居の印象は刻印された。これまで私はこの芝居を観る機会がなかったが、観ていなくてもすでに観た気分になっていた。

 今回の神奈川芸術劇場での公演は「昭和平成版」と「令和版」の二つのバージョンを交互に上演すると知り、よくわからないながらも面白そうだと思いチケットを手配した。

 私は早とちりで「交互」の意味を勘違いしていた。1回の公演で「場」ごとに「昭和平成版」「令和版」を繰り返しながら上演するのだろうと思い、1回で2パターンを観劇できるのはお得だと感じたのである。

 チケット入手後、「昭和平成版」と「令和版」の公演を交互に上演するのだと気づいた。私のチケットは「昭和平成版」だった。上演時間を考えてみれば一度に2つのバージョンをやるのは難しいと気づくはずだった。しかし、この芝居は少しずつズレながらのくり返しの趣があるので、「昭和平成版」「令和版」を混ぜてくり返すという方法も面白いと思う。

 『ゴドーを待ちながら』(昭和平成版)の舞台は十分に楽しめた。円形舞台の4方向に客席があり、客席部分に舞台装置がくいこんでいる仕掛けが面白い。わかりやすさとわかりにくさが混在した20世紀の古典民話のような世界だと感じた。

 実は、今月末『由比正雪』(作:唐十郎、演出:流山児祥)という唐十郎の初期作品の再演を観る予定があり、そのことも今回の観劇の動機だった。『由比正雪』のチラシに「虚実入り混じった唐版「ゴドーを待ちながら」が始まる」とあり、ナンジャと思っているときにゴドー上演を知り、そのチケットも手配したのである。『由比正雪』を観たら、あらためてゴドーを考えてみたい。

大黒屋光太夫を描いた「三谷かぶき」を観た2019年06月22日

歌舞伎座で6月大歌舞伎の昼の部、夜の部を観た。演目は以下の通り。

 昼の部
  寿式三番叟
  女車引
  梶原平三誉石切(鶴ケ岡八幡社頭の場)
  恋飛脚大和往来(封印切)
 夜の部
  月光露針路日本(つきあかりめざすにほん)

 昼の部と夜の部ではガラリと趣が変わる。いかにも歌舞伎らしい歌舞伎と三谷幸喜作・演出の「三谷かぶき」の両方を楽しめた。

 昼の部は目出たくて華やかな舞踊劇に続いて中村吉右衛門&播磨屋一門の「石切梶原」と片岡仁左衛門&松嶋屋一門の「封印切」という歌舞伎らしい見せ場芝居である。両方とも300両(約2000万円)という金銭がらみの話で、どちらも「石」や「金包みの封印」を「切る」という場面がクライマックスになっているのが面白い。吉右衛門の貫禄、仁左衛門の色気と姿の良さを感じた。

 夜の部『月光露針路日本』は大黒屋光太夫が主人公である。2年前に『おろしや国酔夢譚』(井上靖)と『大黒屋光太夫』(吉村昭/新潮文庫)を読んだので、大黒屋光太夫への関心はある。ロシアに漂着し、サンクトペテルブルグで女帝エカテリーナ2世に謁見して帰国を果たした人物である。

 『月光露針路日本』の原作は『風雲児たち』(みなもと太郎)という長編漫画だそうだ。私はこの漫画は読んでいない(みなもと太郎は懐かしい名前だ。ギャク漫画『ホモホモ7』はスゴかった)。

 光太夫を演ずるのは松本幸四郎で、市川猿之助や片岡愛之助などの他に幸四郎の父(白鸚)と子(染五郎)も出演する。

 市川高麗蔵(61歳)が可憐なロシア娘・アグリッピーナに扮して染五郎(14歳)の恋人を演じたのは驚いた。不気味・滑稽を通り越して何でも演じてしまう歌舞伎役者のスゴさを感じた。

 「三谷かぶき」は面白くてわかりやすい。義太夫節で「イルクーツク!」などと朗々と張り上げるので、私でも容易に聞き取れる。江戸時代の人にとっての歌舞伎や義太夫は、かくもわかりやすくて面白いものだったのであろうと想像した。

 『月光露針路日本』の舞台は船上とロシアの地で日本は登場しない。日本が見えてきた所で終幕になる。いい終わり方だと思う。だが、日本に帰還して江戸で取り調べを受けるあたりまでを舞台で観たいとも思った。

 光太夫が江戸に到達したのは寛政5年(1673年)、松平定信の寛政の改革の頃である。その前年には海国兵談の林子平が処罰され、翌年には写楽の大首絵が売り出される。仮に当時の情報流通事情がよく、オカミの統制も緩かったとすれば、光太夫の物語は絶好の同時代演劇の材料になっただろうと空想する。