高校世界史おそるべし2019年05月06日

 『世界史用語集』(山川出版社)、『世界史B講義の実況中継①②③④』(青木裕司/語学春秋社
 年を取ると歴史の本に手が伸びることが多い。いろいろな歴史書を読んでいると己の歴史知識がいびつで欠落が多いと気づく。半世紀以上昔の大学受験では『世界史』を選択していないので高校世界史の知識もあやふやなのである。

 数年前、『世界史用語集』(全国歴史教育研究会編/山川出版社)を購入した。高校生向けの用語集で説明は簡潔明瞭、世界史関連の読書のときに重宝している。この用語集は現行の高校世界史教科書7冊に記載されている用語を収録している。すべての用語に①~⑦の数字が付いていて、⑦は7冊すべてに記載のある用語、①は1冊だけに記載されている用語である。パラパラめくると私の知らない用語も散見され、きちんと勉強して高校世界史レベルの基本知識を習得しなければという気分になる。そこで次の本を読んだ。

 『世界史B講義の実況中継①②③④』(青木裕司/語学春秋社)

 著者は河合塾の名物講師で、その講義を文字で再現した受験書である。7冊の教科書に掲載されているすべてを網羅した講義なので、高校世界史の習得に手頃だと思った。

 約450ページが4冊というボリュームに圧倒されるが、図版、写真、イラストがふんだんに収録され、キーワードが太字や赤字になった口語体の親しみやすい文章なのでスラスラと読めそうな気がした。集中して読めば1週間ぐらいで4冊読了と目論んでいたが3週間近くかかった。

 4冊を読み終えてグッタリ疲れた。読書をしたというよりは受験勉強でフラフラになった感じだ。まさに、熱血講師の長時間の集中講義を聞いて疲労困憊した気分である。多岐にわたるさまざまな事項の奔流を浴びて、自分が受験生でなくてよかったと実感した。これだけの事項を記憶にとどめるのは大変だと思った。

 まず、高校世界史がカバーする地域の広さに驚いた。当然ながら全世界に及んでいる。私は観光でアンコールワット(カンボジア)、アユタヤ(タイ)、パガン(ミャンマー)などの遺跡を訪れたことがあり、そのときには付け焼刃的に遺跡に関する簡単な歴史を読んだ気がするが、それらを世界史のなかに位置付けて考えることはなかった。本書によって、これらの遺跡にまつわる歴史が高校世界史で言及される基本事項だと知った。

 また、私が勝手にマイナーだと思っていた人物にまで高校世界史が言及しているのに驚いた。たまたま私が知っているラサール(全ドイツ労働者協会の創立者)やシャハト(ナチスの経済相)などがこの講義に登場し、高校世界史レベルの人物だったと認識した。もちろん、私の知らない人物も多数登場する。

 と言って、この講義は単に多くの事項を網羅的に解説しているのではない。さまざまの事象の意味や因果関係を丁寧に説明しているし、受講者(読者)の関心を喚起する工夫も随所にある。教科書ごとに表現がゆらいでいる事項の指摘なども興味深い。いろいろな事項の記憶法の披露もある。

 私が最近読んだ中央アジアの遊牧民関連では次のような覚え方が紹介されていた。

 2(に)・4(し)・6(ろ)・8(や)・せん・じゅう・とっ・かい

 これは、北方騎馬民族の興亡「鮮卑(2C)→柔然(4C)→突厥(6C)→回紇(ウイグル)(8C)」の記憶法である。

 モンゴル関連では、私が最近まで知らなかったラシード=アッディーン編纂の『集史』についても「モンゴルに関する記述は、イスラーム・モンゴル史の貴重な史料です」と紹介されている。

 また、元の中国支配に関して、従来の教科書ではモンゴル人が他の民族を差別したと記載されていたが近年は見直しがされているとし、「他の宗教を弾圧することもほとんどありませんでした」「人材登用の面でも、言語・民族・宗教・出自などにかかわらず、実力本位で登用したようです」と記述している。これが現在の高校世界史のスタンダードな見解のようだ。

 この講義には講師(著者)の個人的な体験談や見解、ジョークなども織り込まれていて、それが魅力になっている。

 アステカ帝国やインカ帝国に関する記述では、それらの帝国を滅ぼしたスペイン人の征服者(コンキスタドール)であるコルテスとピサロに言及し、彼らの肖像が描かれた2枚のスペイン旧紙幣の写真を掲載している。そして「スペインって、新大陸でやったことを反省してないみたいネ」と書き添えている。

 明の朱元璋(洪武帝・太祖)に関する説明では、「いかんせん顔が悪かった。(…)顔も悪ければ心も悪い。中国の歴史上最も陰険で疑り深い皇帝といわれています。(…)だからせめて、国の名前ぐらいは“明”に(…)」と語り、朱元璋の顔のイラストを載せている。その化物顔が爆笑ものである。 

 本書にはいろいろな書籍紹介が表紙写真つきで載っていて、講師(著者)の評価や読書体験も語られている。それは、大学生になったらいい本を読めというメッセージでもあり「大学のときに軽いものばかり読むのはダメです。すぐに役立つ本は、すぐに役立たなくなるものです」と述べている。「すぐに役立つ」ことを目指した受験書にこのメッセージがあるのが面白い。

 多少の息抜きが散りばめられてはいるが、本書は総じてハードで盛り沢山な濃い講義の記録であり、高校世界史の広範さにあらためて驚いた。ここで扱われている事項の意味と因果を明確に把握するのは容易ではない。高校世界史とは言え、その追究は結局のところは私たちの生きている世界の事象を考える終わりなき探求にならざるを得ない。

『大名絵師写楽』は寛政期の奇妙で洒落た雰囲気を感得できる小説2019年05月08日

『大名絵師写楽』(野口卓/新潮社)
 写楽好きの友人から薦められて次の小説を読んだ。

 『大名絵師写楽』(野口卓/新潮社)

 18世紀末(寛政)の江戸に突如として登場して10カ月だけ活躍して姿を消した謎の絵師「写楽」を巡る物語である。私は写楽に関してはまったくの門外漢だが、その正体についていろいろな説があることは聞いている。

 この小説はタイトルが示しているように写楽を「ある大名(正確には隠居した元大名)」としている。フィクションではあるが、それなりの説得力のある仮説である。小説で言及される絵を画集で確認しながら興味深く読了できた。

 謎を追及するミステリー仕立てではなく、謎の絵師を作り上げていく仕掛け人(蔦屋重三郎ら)たちの話になっているのが楽しい。

 写楽の謎を巡る話も面白いが、むしろ寛政期の芝居小屋や版元の周辺に集う町人や武士たちの闊達な世界にこの小説の面白さを感じた。松平正信の寛政の改革による風紀取締まりの世における面従腹背世界の雰囲気が伝わってくる。戯作者と武士という二つの顔をもつ人物が象徴する奇妙で洒落た世界である。

 また、江戸の芝居小屋の事情や様子をつかめたのも収穫だった。江戸の芝居小屋における「櫓(やぐら)を許される」「櫓をあげる」という言葉がいまひとつよくわからなかったが、この小説によって「櫓」のイメージと意味を感得できた。

佐藤優氏の『国家の罠』には観劇的な面白さがある2019年05月11日

『国家の罠:外務省のラスプーチンと呼ばれて』(佐藤優/新潮文庫)
 佐藤優氏は大量の本を書いている。その何冊かは読んだことがあり、情報や諜報に長けた知識人だとは認識している。彼の「デビュー作」である『国家の罠』は未読だった。それを今回読んだ。

 『国家の罠:外務省のラスプーチンと呼ばれて』(佐藤優/新潮文庫)

 単行本刊行は14年前、その2年後には文庫化されている。本書の存在は刊行時から知っていたが、タイトルだけで内容が推測できるような気がして敬遠していた。それを読む気になったのは2カ月ほど前に、佐藤氏が高校時代に東欧・ソ連を個人旅行した記録『十五の夏』を読んだからである。この高校生がどんな経緯で「起訴休職外務事務官」となったかに興味がわいた。

 『国家の罠』は自らが体験した国策捜査の実態と自分を切り捨てた外務省の実情を述べた本であり、概ね私の予感したような内容だった。思ったほどに告発調ではなく坦々と自身の体験と見解を「歴史の証言」として語り、2030年には関連文書が公開されるので、そのときに自分が正しいと明らかになるだろうとしている。その自信が見事である。

 予感した以上に面白かったのは、著者と検察官とのやりとりである。著者が誠実な検察官をリスペクトとしているので、奇妙な悲喜劇のようなシーンが繰り広げられている。

 佐藤優氏の本は面白いのだが自画自賛的な記述が多いのは少し辟易する。検察官が著者に対して述べる「格好つけている。もう、面倒なんだから」というセリフに共感したくなる。

 ラスト近くの法廷での最終陳述は圧巻である。ヘーゲルの『精神現象学』から説き起こし、ケインズやハイエクを援用しつつ国策捜査を解読し、おのれの無罪を主張している。評論としては実に面白いが、裁判官は辟易したのではなかろうか。もちろん、このやや衒学的な最終陳述に裁判官が説得されるわけではない。しかし、法廷という舞台で展開される芝居としては、なかなかの名場面である。

沖縄で組踊300周年記念公演を観た2019年05月22日

 2019年5月15日、「国立劇場おきなわ」で組踊を観た。3月に東京の国立劇場で「組踊と琉球舞踊」という催しを観ているので初体験ではない。2回目に過ぎないのに妙な懐かしさを感じた。

 組踊とは琉球王府の踊奉行だった玉城朝薫が中国の冊封使歓待のために制作した沖縄独自の歌舞劇で、1719年に初めて上演された。玉城朝薫は江戸に派遣されたこともあり、能・狂言・歌舞伎などの影響のもとに組踊を考案したそうだ。「踊奉行」という言葉からは浮世離れしたのんびりした印象を受けるが、玉城朝薫という人は何でもできる有能な行政官だったらしい。

 今年は組踊上演300周年で、その記念事業の一つが今回の公演だった。『忠臣身替の巻』という2時間近い演し物の前にトークがあり、伝統組踊保存会会長が50年前の250周年の時の話をした。50年前は本土復帰前で、もちろん国立劇場は存在せず、組踊の継承者も少なく、かなり地味な上演だったそうだ。その後、日本への復帰と同時に国の重要無形文化財に指定され、後継者も順調に育っているそうだ。

 今回の公演は満席だった。出演者は若手から80歳を越えた長老まで幅広い。伝統芸能が継承されて行く現場に立ち会ったような気分だった。

 組踊はかなりゆったりとした歌舞劇である。役者はゆっくりとした歩みで舞台に出てくるし、歌もスローテンポだ。『忠臣身替の巻』は仇討ち話だが肝心の仇討ち場面は舞台上では演じられない。討たれる側が舞台に登場して台詞を朗じると下手にゆるりと去って行く。続いて討つ側が現れて台詞を朗じて下手にゆるりと去る。しばらくして、討つ側が下手からゆっくりと再登場するとすでに仇討ちは終わっている。歌舞伎のようにどぎつい場面や見得を切るシーンはない。そのユルさが組踊の魅力に思えた。

『はじめての沖縄』は「めんどくさい」本2019年05月23日

『はじめての沖縄』(岸政彦/新曜社
 ある経緯で8年前に那覇市にマンションを取得し、年に数回は沖縄に行っている。ここ数年は年に3回10日ずつのんびり日常を過ごすだけで、マンションからの徒歩圏内以外に行くことはあまりない。そんな私が東京の書店の店頭で軽いエッセイ風の次の本を手に取った。

 『はじめての沖縄』(岸政彦/新曜社)

 沖縄の事情に詳しいわけではないが、数十回は訪問しているし沖縄関連の本も多少は読んでいる。『はじめての沖縄』というタイトルならパスしていいかなと思いつつパラパラ立ち読みすると、何やらややこしそうな本に思えて購入した。

 この本を読み始めたのは沖縄に出発する日の羽田空港に向かう電車の中だった。そして飛行機が那覇に着陸して市内に向かうモノレールの中で読み終えた。数時間で読了できる読みやすいエッセイなのだが、読後感はどんよりと重い。沖縄に向かう飛行機の中で読むのに適した本ではなかったかもしれない。

 著者は1967年生まれの大学教授・社会学者である。二十代半ばに観光客として沖縄を訪問して以来「沖縄病」にかかり、何度も沖縄を訪問し、それが高じて沖縄を研究する社会学者になったそうだ。

 社会学という学問がこの世の何もかもを研究対象にする恐るべき学問だとは承知している。「沖縄学」という言葉もあり、沖縄を研究テーマにする社会学者がいても不思議ではない。だが、現実にそんな若い(私から見て)学者が存在していることに軽い驚きを感じた。

 本書の序章のタイトルは「沖縄について考えることを考える」で、この屈折したトーンが本書全体を貫いている。著者の思考と感性の断片を紡いだエッセイ集で、つい引き込まれて読んでしまう。だが、著者自身が述べているように「めんどくさい」本である。

 必ずしも本書の内容を表しているとは思えない『はじめての沖縄』というタイトルは、著者の思考の出発点という個人的な意味を反映していて、このタイトルの付け方からしてややこしい。また、本書には著者が撮影した写真が多数収録されているが写真説明はない。写真もエッセイと同等にそれ自身として提示されていて、興味深い写真ではあるがややこしい。

 私自身は沖縄病にかかったことはなく、沖縄に関する通り一遍の知識と沖縄での日常に満足している。本書は、深く考えることのない日常に吹いてくる「めんどくさい」風のようでもある。沖縄に向かう飛行機で読むのにはいかがかと感じたのは、ややこしさが伝染してきそうだからである。

少年王者館の『1001』は合わせ鏡の中のような舞台2019年05月24日

 新国立劇場小劇場で少年王者館という劇団の『1001』(作・演出:天野天街)という芝居を観た。1982年に名古屋で旗揚げされた劇団だそうだ。私には未知の劇団である。

 公演チラシの雰囲気から混沌とした妖しげな舞台を想像したものの、どんな芝居なのかの事前知識なしに観劇した。

 休憩なしの2時間強の舞台は、ほとんど途切れることのないセリフ(輪唱的なセリフも多い)の連射で言葉の奔流に圧倒された。登場する役者は数十人、ミラーボールのように乱舞する照明を活用したかなり大掛かりな舞台で、退屈する暇はなかった。

 『1001』というタイトルは『千夜一夜物語』や『一千一秒物語』(稲垣足穂)から発想したそうだ。夢幻的舞台には魔法のランプ、紙芝居、黄金バットなどが登場しキリコの絵のようなシーンもあるが、静謐ではなく猥雑でギャグもふんだんだ。「憎むな、殺すな、赦しましょう」というセリフも出てきたので月光仮面か川内康範が登場するかと期待したが、それはなかった。

 この舞台で感心し面白く思ったのは、合わせ鏡の中のような無限連鎖の世界、醒めても醒めても夢の中という夢幻世界を舞台上でダイナミックに表現している点である。いつまで経っても始まりもしないし終りもしない世界、終りと始まりがつながってしまったような世界である。

『HHhH 』を映画化した『ナチス第三の男』を観た2019年05月27日

 映画『ナチス第三の男』を下高井戸シネマで観た。ローラン・ボネの メタフィクション的歴史小説『HHhH プラハ、1942年』を映画化したもので、ナチス統治下のプラハ副総督ハイドリヒ暗殺を扱っている。「HHhH」とは「Himmlers Hirn heiβt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)」という意味である。

 この暗殺事件は過去に何度か映画化されている。私は2年前に映画『ハイドリヒを撃て!』を観て、それを機に『HHhH』を読んだ。その時、この作品の映画化の情報を得ていたので、この映画を心待ちにしていた。

 映画『ナチス第三の男』の原題は『THE MAN WITH THE IRON HEART』で、これはヒトラーがハイドリヒを評した言葉である。やはり『HHhH』というタイトルでは何のことやら不明なので変えたようだ。そう思って、パンフをよく見ると、この原題に『HHhH』が隠れていると気づいた。原題は正確には『THE MAN WITH ThE IRON HEART』だった。芸が細かい。

 小説『HHhH』はハイドリヒ暗殺の小説を書く過程を表現した小説で随所に作者が顔を出すので、『ナチス第三の男』にも作者が登場するかと期待したが、そんなヘンテコな作りではなく正統な映画だった。

 『ナチス第三の男』と『ハイドリヒを撃て!』を比べると、暗殺に関する緊迫感は『ハイドリヒを撃て!』の方が上である。『ナチス第三の男』はハラハラドキドキの映画ではなく、暗殺される圧政者側、暗殺者&レジスタンス側の両方を坦々と描いている。

 ハイドリヒの国防軍不名誉除隊、親衛隊への入隊、結婚などを描き、ヒムラーやレームなども登場する。ナチス高官の家庭生活や日常を通して、あの時代の雰囲気が伝わってくる。もちろん、非日常的な悲惨で残虐な場面がメインだが、その合間に日常が顔を出すのが何とも言えず怖い。

2冊のモンゴル史概説書を読みくらべた2019年05月28日

『蒼き狼の国(大世界史8)』(村上正二/1968.1/文藝春秋)、『大モンゴルの時代(世界の歴史9)』(杉山正明・北川誠一/1997.8/中央公論社)
◎昔の本と最近の本

 杉山正明氏の遊牧民関連の本を数冊読んで、モンゴル史(中央アジア史)の見方が昔とはかなり違ってきていると知り、この分野への関心が高まった。昔の本と最近の本の違いを確かめてみたいと思い次の2冊を読みくらべた。

①『蒼き狼の国(大世界史8)』(村上正二/1968.1/文藝春秋)
②『大モンゴルの時代(世界の歴史9)』(杉山正明・北川誠一/1997.8/中央公論社)

 2冊とも一般向け歴史叢書の1冊である。②の刊行は①の約30年後で、著者の歴史家は30歳以上離れた別世代だから、①は昔の本②は最近の本と見なした。②の刊行は20年以上前なので最近の本とは言い難いが、杉山正明氏の著作なので比較に適していると考えた。

◎どちらも面白い

 2冊を読み終えて、かなりのテイストの違いがあるものの、どちらも面白いと感じた。②がモンゴル中心視点なのに比べて、①はモンゴルなどの遊牧民国家を「征服諸王朝」と表現しているように漢民族視点のようにも見えるが、そうとも言い切れない。

 ①の冒頭では、モンゴルがうんだ『元朝秘史』とラシード・ウッディーンの『年代記集成』(『集史』)に記述されている「森の民」「ステップの民」「城の民」を比較紹介し、鮮卑族からはじまる遊牧民国家の発生を解説している。基本的は遊牧民視点の記述だと感じた。

 この2冊で単純に面白く感じたのはチンギス・カンからオゴタイ、グユク、モンケを経てフビライ・カンに至る13世紀ユーラシアの虚々実々の歴史である。歴史物語の面白さとも言える。そこだけに面白さを感じるのは歴史書の本質からズレた読み方だろうが…

 チンギス・カンの前半生は史料では確認できないそうだ。①は伝説などを紹介したうえで井上靖の『蒼き狼』にも言及している。わが世代には懐かしい小説である。①が紹介するテムジン伝説は面白い。

 ②は「チンギスという個人も、かれが出身したモンゴル部という小集団も、確たる政治権力に浮上するまでの素性や来歴については、どちらも闇のなかにある。それを真剣にあれこれ論じても、しょせんは小説とは大きくは変わらない」として、彼の前半生への言及を避けている。①と②のテイストの違いである。

◎見解の違いは多い

 当然ながら、①と②の見解の違いは多い。そのひとつがモンゴル帝国における四つの種族別社会層、つまり「モンゴル人」を支配層とし「色目人」「漢人」「南人」と連なる階層分けである。人口は南人が最大で、上の階層ほど少なくなる。①はこれを同心円の図解で解説している。

 この階層について②は次のように切り捨てている。

 「歴史の教科書では、モンゴル治下の中華地域では、モンゴル、色目、漢人(北中国の人びと)、南人(江南の人びと)という四段階の身分が厳重にしかれたなどと記述されるが、本当は、そんな枠や身分制度は、ほとんど限りなく薄く、かすかだった。七〇年ちかくまえ、ある元代研究者がいいだした単純な謬説が踏襲され、訂正されないままに、イメージだけがひとり歩きして、誤解が誤解を呼んで、どんどん拡大再生産されているにすぎない。」

◎「民族」の扱いはむつかしい

 ①と②の大きな違いは「民族」という言葉の扱いである。杉山正明氏は他の著作でも、近代以前の歴史に「民族」という概念を適用することに疑念を呈している。とは言え、近代以前を扱う歴史書にも「民族」という言葉は頻出する。

 ①にも「民族」「民族意識」という言葉が多用されている。例えば次のような使い方である(文章は原文を要約)。

 「遊牧民国家は、王朝成立から時間が経つと漢文化に同化され『民族としての活力』を失った」

 「宋朝は、夷狄からの侵攻とそれに対する敗退と屈辱的盟約によって『民族的抵抗意識』を熾烈なものとした」

 「南宋の遺民のあいだには、宋学でつちかわれた『漢民族の民族意識』が、いつのまにかめばえており、それがつよく成長していたのかもしれぬ」

 ②では「漢民族」について次のように述べている。

 「長い歴史時代、「漢民族」の名で近現代の史家から呼ばれがちな存在は、じつはずっと、輪郭・中身ともに、ふわふわと柔らかで、多分に融通性と曖昧さをのこした状態でありつづけた。(…)すくなくとも、モンゴル時代が過ぎ去って、だいぶたってのちに、「民族」へのはるかななる道のりを辿りはじめたといっていい。」

 また、杉山氏の持論に近い次のような記述もある。

 「王朝が、モンゴルから漢族出身者にかわったからといって、国家や社会の全体が、すっかり、ある「民族国家」から、別の「民族国家」にガラリとすりかわるわけでは、もちろんない。この手の固定観念は、王朝時代の華夷思想と、近現代の「国民国家」(ネーション・ステート)という幻想が混ざりあった一種独特の「民族主義」にもとづく。」

 「「民族」ならざるものを、「民族」の目で決めつけて眺めることは、政治上の思惑ですることならともかくも、事実においては、歴史を創作することになりかねない。それによるズレ、誤解がおそろしい。」

 「民族」という言葉に何をイメージするかは人それぞれだろうが、近代以前の歴史記述に「民族」に代わる別の用語はないのだろうか。