チェーホフの『かもめ』は謎が残る2019年04月17日

 新国立劇場小劇場でチェーホフの『かもめ』(演出:鈴木裕美)を観た。半世紀以上昔の学生時代、チェーホフの4大劇(『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』)の戯曲から大いなる感銘を受けた。だが、舞台は『桜の園』を観たことがあるだけで、『かもめ』の観劇は初体験である。

 チェーホフの戯曲が印象深いのは確かだが、半世紀以上が経過するとその漠然たる印象の記憶だけが残っていて、芝居の内容はほとんど失念している。観劇前に書架の奥にあった新潮文庫の『かもめ・ワーニャ伯父さん』(神西清訳)を再読し、チェーホフ世界がよみがえった。

 上演パンフによれば『かもめ』の翻訳は十数種あり、今回はあえて英語台本を日本語に翻訳したものを使ったそうだ。と言っても、原作を逸脱しているわけではなく、チェーホフ世界の雰囲気を堪能できた。

 チェーホフを「暗い」という人がいるが、暗いとは思わない。苦さと滑稽が混ざった、チェーホフ的とか表現できない独特の味わいの世界だと思う。

 『かもめ』はコンスタンティン(トレープレフ)という若者の自殺を医師ドールンが作家トリゴーリンに耳打ちする衝撃的で静かなシーンで幕切れになる。印象深い幕切れだが、謎が残る。

 戯曲を読んでもよくわからず、舞台を観てさらに謎が深まったのは「かもめの剥製」である。シャムラーエフ(管理人)がトリゴーリン(作家)からの依頼でかもめを剥製にしたと言って、それを取り出すが、トリゴーリンは「覚えがないなあ」を繰り返す。

 この芝居では「かもめ」は最初から象徴的に扱われている。ニーナの「私は――かもめ。そうじゃない。私は――女優」という科白も印象的である。だが、「かもめの剥製」は唐突で不思議である。その不気味さが解読できない。

 トリゴーリンの記憶喪失か、シャムラーエフの悪意か、別のだれかが剥製作成を依頼したのか、また、剥製に含意されているのは否定的なものなか肯定的なものなのか、私にはわからない。生と死を定着させて後世に伝える「文学作品」の象徴なのだろうか。『かもめ』は名作古典なので、これまでにいろいろ解読されてきたのだろうとは思われるが…