サルトルの『出口なし』は芝居らしい芝居2018年08月30日

 サルトルの『出口なし』(演出:小川絵梨子)を新国立劇場小劇場で観た。出演は大竹しのぶ、多部未華子、段田安則である。

 かの実存主義のサルトルである。私の世代にとっては避けて通るのが難しい知識人代表選手のような存在だったが、私はろくに読んでいない。もはや忘れられた過去の哲学者・文学者と思っていた。

 そのサルトルの名が大竹しのぶ、多部未華子という名と並んでいる取り合わせに軽い衝撃を受け、劇場に足を運んだ。サルトルの芝居は約半世紀前に『汚れた手』(劇団民芸)を観ただけだ。今回の観劇を機に古書で入手した戯曲『出口なし』には事前に目を通した。

 不思議な一部屋に閉じ込められた三人の会話で終始する芝居である。三人の役者が好演する舞台を観終えて、いかにも芝居らしい芝居を観たなあという、懐かしさに似た感慨がわいた。

 三人の登場人物は死んだばかりの死者であり、みな自分が死んだことを知っている。しかも自分たちが天国ではなく地獄におとされたことも自覚している。ただし、地獄がどんな所かは知らない。そんな三人の会話劇である。いろいろな展開が想定される面白い設定だ。

 『出口なし』は現代人のおかれた状況を地獄に見立てた芝居で、救いを見出しにくい話ではあるが、多少のユーモアもある。キメ科白は「地獄とは他人のことだ」である。これは残る。出口が開いても誰も出て行けない。他人なしに自身が存在できないのだ。

 観劇の後、唐十郎の紅テント『状況劇場』という名はサルトルの「シチュアシオン」(Situations)に由来すると聞いたような気がすると思い出し、サルトルの舞台が少しだけ身近に思えてきた。