平田オリザの『日本文学盛衰史』を観た2018年06月30日

 吉祥寺シアターで『日本文学盛衰史』(作・演出:平田オリザ、青年団第79回公演)を観た。平田オリザの芝居を観るのは初めてだ。

 休憩なしの2時間20分、舞台は一貫して葬儀(通夜)の宴席である。同じ装置のまま4場に転換し、次の4つの通夜が演じられる。 

 第1場 北村透谷の葬儀  1894年(明治27年)
 第2場 正岡子規の葬儀  1902年(明治35年) 
 第3場 二葉亭四迷の葬儀 1909年(明治42年)
 第4場 夏目漱石の葬儀  1916年(大正5年)

 高橋源一郎の原作には多くの文学者が登場するが、芝居ではより多彩な文学者たちが時代を越えて出没する。その舞台回しは島崎藤村と田山花袋で、このコンビが軽くて面白い。原作同様に花袋はAVの監督もやっている。加計学園、和歌山のドンファンなどのギャグも飛び出す。

 観劇直前に原作の小説を読んでいたので、明治の青年群像に現代の風俗が浸透する奇天烈な世界には容易に入り込めた。原作の「たまごっち」や「伝言ダイヤル」に代わってLINEやツイッターが登場する。舞台装置や人物の服装は明治の趣なので、そんな彼ら彼女らが奇天烈な世界で熱く語り合い狂騒する姿を眺めると、あらためて明治の青年もわれらと同時代人だと感じる。

 同時に「誰もが昔は若かった」という当たり前の感慨を抱いた。原作には出てこない野上弥生子(結婚前なので姓は小手川)が若い姿で現われたのには感動した。登場人物の中で唯一、私が実物を見たことがある文学者だ。私は高校生の頃(半世紀以上昔)、当時80歳位の野上弥生子の講演を聞いたことがある。舞台を眺めながら明治が地続きに感じられた。

 やや意外なのは森鴎外の科白が多いことだ。藤村や花袋のような舞台回しではないのに4つすべての葬儀に参列し、かなりの存在感を発揮している。陸軍軍医総監だった鴎外に、文学者とは別に「国家」の代弁者という役が与えられているからだ。

 この芝居は、現代日本語を生み出そうとしている人々の物語であると同時に、思想表現を通じた国家論も射程に入っている。だから「国家」の代弁者も必要なのだ。

 その鴎外が何の脈略もなく、突然に「脚気は、脚気菌が原因である」と絶叫し、その後「失礼しました。大人げないところを見せてしまいました」と冷静に返る。このシーンには笑うと同時に感心した。平田オリザは鴎外批判の勘所をおさえていると思った。

 高橋源一郎の『日本文学盛衰史』は、そのタイトルが示すように、一時は盛り上がった「文学」の衰退を予感させている。と言っても文学の命運を明示しているわけではない。

 平田オリザの舞台は文学の「盛衰」や「命運」をより明示しようと試みている。ラスト近くの狂騒に近づくシーンでは「作家は長者番付の常連になります。20世紀の終わりまでは」という科白が飛び出し、「やがて、小説はだんだんと読まれなくなります」と続く。

 20世紀末に書かれた『日本文学盛衰史』は衰退に入る直前、つまりは最盛期最後の小説だったのだ。芝居の方がよりシビアな現実を表現していることになる。文学と直接には関連しないかもしれないが、芝居では新聞の衰退にも触れていて、かなり辛辣だ。

 だが、原作小説より芝居の方が明るくて楽観的に感じられた。何故だろうか。最後にみんなが踊りだすからではない、と思う。小説よりは芝居の方が原初的なものだからだろうか。