17年前に購入した『日本文学盛衰史』を読んだ2018年06月26日

『日本文学盛衰史』(高橋源一郎/講談社)
◎劇評記事で原作小説を想起

 日経新聞(2018.6.15夕刊)と朝日新聞(2018.6.18夕刊)で『日本文学盛衰史』という芝居の劇評に接し、面白そうなので早速チケットを手配した。

 同時に、この芝居の原作である高橋源一郎の小説が未読のまま本棚の奥に眠っているのを思い出した。

 『日本文学盛衰史』(高橋源一郎/講談社)

 購入したのは17年前の2001年。購入のきっかけは明確だ。当時、高橋源一郎が『週刊朝日』に連載していたコラムで2週に渡ってこの自著を宣伝し、その紹介文に惹かれたからだ。そんな昔の経緯を憶えているわけではない。この本にコラムの切り抜きが挟まっていたので記憶がよみがえったのだ。

 何故未読のまま放置したかは定かでない。箱入りハードカバー約600頁という分厚さにたじろいで後回しにしているうちに失念したのだろう。

 観劇前に小説を読んでおかねばと繙くと面白さに引き込まれて一気に読了できた。奇天烈なエッセイ風パロディ小説である。

◎舞台は明治だが、20世紀末でもある

 この小説は『群像』(1997年5月号~2000年11月号)に連載され、2001年5月に刊行されている。刊行直前の著者の自己宣伝コラムには次のように書いてある。

 「舞台は明治、登場人物は夏目漱石、森鴎外、石川啄木、二葉亭四迷たち明治の作家---(略)書き進めながら、『日本文学盛衰史』は明治でも現代でもあるような、小説でも批評でも詩でも歴史でもマンガでもポルノでもあるような不思議で長大な作品になっていった。」

 著者が述べているように舞台は明治であり、登場人物は当時の文学者たちだ。しかし、漱石と鴎外が「たまごっち」を話題にし、啄木がブルセラショップの店長になり、『蒲団』の田山花袋がアダルトビデオの監督になったりと、連載当時の1990年代後期の風俗が明治に浸潤している。タカハシ・ゲンイチロウも登場人物や話者として顔を出し、その胃カメラ写真がカラーで引用されている。まことに奔放である。

 物語の中盤まではパロディ風だが後半はエッセイ味が強くなってくる。後半までパロディ世界を徹底させればもっと面白かったのにと思う。

 エッセイ風の部分がつまらないわけではない。特にに後段の「謎解き『こころ』(漱石)」と言える部分には引き込まれた。普通の評論としても成り立つ題材だが、それを評論にするのは無粋だからフィクションにしたのだと思う。だとすれば、フィクションとしてもっとはじけてもいいのにと感じた。

◎わからくても楽しめた

 著者は小説執筆にあたって明治の文学にどっぷり浸ったそうで、この小説には多くの明治の文学者が登場する。その大半は、私にとっては名前を聞いたことがあっても作品に接したことのない未知の文学者である。それでも、この小説を楽しむことはできた。

 もちろん、北村透谷、山田美妙、川上眉山、横瀬夜雨、伊良子清白などなど私が読んでいない文学者たちの作品を読めば、もっと楽しめるのだろうが、そこまで深入りする気にはなれない。

 また、この小説はパロディにあふれている。島崎藤村が『破戒』を書きながら「勝利だよ、勝利だよ」とつぶやくのは、吉本隆明の『言語にとって美となにか』の「あとがき」の引用だろう。何故、藤村が隆明だとの疑念を抱くも思わず笑ってしまう。「されど我らが日々」と「そしていつの日にか」の対句は柴田翔へのオマージュなのか揶揄なのか…。

 そんな、私でも原典が推測できるものもあるが、大半は私にはわからない。それがわかればもっと笑えるだろうと残念に思うが仕方ない。

◎奇妙な時間感覚

 刊行から17年を経てこの小説を読んだことによって、刊行直後に読んだなら感じなかったであろう時間感覚を抱いた。

 この小説に登場する「たまごっち」「伝言ダイヤル」「パソコン通信」などなど1990年代後半(つまりは20世紀末)の事象は、現在(2018年)から見ればもはや懐かしい遺物だ。

 明治が遠くになったのは当然として、本書発表時の20世紀末も「遠くなりにけり」である。

 新聞の劇評によれば、現在上演中の芝居『日本文学盛衰史』は平田オリザ作・演出で、原作小説への「返歌」になっているそうだ。どんな舞台なのか、今週末の観劇が楽しみだ。