私は『馬の首風雲録』でブレヒト世界のイメージを紡いだ2018年04月05日

『肝っ玉おっ母とその子どもたち』(ブレヒト・岩淵達治訳/岩波文庫)、『馬の首風雲録』(筒井康隆/日本SFシリーズ13/早川書房)
 先日、ブレヒトの『肝っ玉おっ母と子供たち』観劇の感想を書いた。この芝居に関しては以前から「あえて観なくても舞台で展開される世界が想像できる気になっていた」と書いた。

 と言っても、この戯曲を昔に読んでいたわけではない。戯曲を読んだのはほんの1カ月ほど前、チケットをゲットした後だ。だが、この戯曲の雰囲気や内容はずいぶん昔から知っているような気がした。初読なのに既視感があった。

 なぜだろうと考えてみた。高名な芝居なので、遠い昔に雑誌や新聞などの紹介記事や劇評、あるいは舞台写真などに接していたせいだろうか。

 そんなことを考えているうちに筒井康隆氏の『馬の首風雲録』に思い当たった。氏の長編2作目で『SFマガジン』の1966年9月号から1967年2月号に連載された。この小説のイメージが『肝っ玉おっ母』に重なっているのだ。

 この小説の連載が始まった1966年は私が高校を卒業した年だ。当時は『SFマガジン』を数カ月遅れの古本で購入していたので(その方がはるかに安い)、数か月遅れのタイムラグで私はこの連載小説を読んだ。

 その後に出た単行本(早川書房の「日本SFシリーズ 13」)も持っているのは、著者による解説風の「あとがき」という付加価値があるからだ。小説そのものは雑誌連載で読んだだけで、その後は読み返していない。

 でも、その印象は強く残っていて、最後のセンテンスも憶えている。遠い未来の宇宙の彼方の星で犬に似た異星人が繰り広げる戦争の話で、地球人は背景としてほんの少ししか登場しない。この小説はベトナム戦争とブレヒトをベースにしていると私は感じた。

 小説連載時はベトナム戦争の真っ最中であり、小説のラストセンテンス「戦争はまだまだ」終わりそうもなく、それは今や泥沼の様相を呈しはじめていた」は当時のベトナム戦争そのものだ。ベトナム戦争の影を感じるのは当然として、読んだこともないブレヒトの世界を『馬の首風雲録』に感じたのは何故だろうか。おそらく、同じ時期に接した『肝っ玉おっ母と子供たち』の情報と共鳴したのだろう。

 単行本の「あとがき」で筒井康隆氏は次のように書いている。

 『これは『戦争』というテーマの、一種のコラージュです。(…)この長編の中には過去のさまざまな文学作品、芸術作品がデフォルメした形で貼りあわせてあります。田河水泡『のらくろ』、ブレヒトの戦争テーマの一連の戯曲、その他ヘミングウェイ、岡本喜八の戦争喜劇映画、野間宏、メイラー、カフカ。大岡昇平まで出てきます。』

 事後に読んだこの「あとがき」が記憶に何らかの作用をしている可能性もある。いずれにしても『馬の首風雲録』を読んでから約半世紀の間、私の頭の中にあったブレヒトの『肝っ玉おっ母と子供たち』のイメージの内実は『馬の首風雲録』のイメージだったのだ。

 そう気づいて、『肝っ玉おっ母と子供たち』観劇後、半世紀ぶりに『馬の首風雲録』を再読した。そして、私が『馬の首風雲録』によってブレヒトをイメージしていたのは的外れではなかったことを確認した。本体を読まずしてイメージを紡げた不思議を感じる。