西部邁の自死はズシンときいてくる2018年02月11日

『ファシスタたらんとした者』(西部邁/中央公論新社)、『保守の真髄:老酔狂で語る文明の紊乱』(西部邁/講談社現代新書0)
 西部邁の自死から3週間以上が経過した。時間の経過とともに、私があの自死にかなりの衝撃を受けていると自覚した。

 自ら予告し続けた自死であり、己の論理あるいは哲学にかなった「合理的」とも言える自死だが、そんな自死を実行できる人が多いとは思えない。明晰なのに釈然としない。私たちが自分の将来(老残)を考えるとき、西部邁の影がチラチラしそうな予感がする。

   このブログに書いたように、西部邁自死の直後に『ソシオ・エコノミクス』と『寓喩としての人生』をひもといてはみたものの、この20年ばかりは彼の新著は読んでいなかった。ネットで検索すると、持続的にかなりの著作をものしている。この1年でも次の2冊を刊行している。

 『ファシスタたらんとした者』(中央公論新社/2017.6.10)
 『保守の真髄:老酔狂で語る文明の紊乱』(講談社現代新書/2017.12.20)

 自身の思想遍歴を述べた『ファシスタたらんとした者』は『寓喩としての人生』とかぶる部分も多いが、その後の約20年も含まれていて言葉の芸もあり一気に読めた。やや批判的に江藤淳や三島由紀夫の自死も論じている。三島を論じるのは、自分が自死を決めたということだとも述べている。

 『保守の真髄』は語り下ろしの新書で、あの粘着質で嫋嫋かつ朗朗とした理屈っぽいおしゃべりを延延と聞かされている気分になる。自身の見解と思想の概略だけでも語り尽くそうという執念を感じる。難解な部分も多い。十全には理解できず、賛同しがたい見解もあるがトータルの雰囲気は納得できる。

 2冊とも自死の必然性に言及していて、死の影が色濃く漂っている。だが、死ぬ死ぬと自分を自死に追い込んでいるようには感じられない。自分のことは自分で決めると坦々と自死を予告しているだけだ。

 西部邁は、自身を大多数からは理解されない真正保守と位置づけ、自身が奇矯な人物と見なされているように述べている。確かに一見奇矯に見える発言もあるが、実は極めて常識的・合理的でまっとうな考えの人に思える。個人と公共のバランス重視、 民主政が衆愚政治に陥る危険、熱狂への警戒、近代合理主義批判、人間の全体性回復などは非常識ではなく常識である。ただし、論理の究極が逆説に漂着することもあり得る。

 西部邁が私のような一般人と異なっているのは、妙に頭がよすぎるところだ。理数的な理解力をベースに社会科学全般を渉猟し、どの学問もが半端なものだと見抜き、それらを統合する大思想を紡ぎたいと夢見たようだ。壮大な視点からは、人が安易には操作できるはずもない社会の複雑さを理解しようとしない大多数の人間が愚か者に見えたのだろう。

 『保守の真髄』のオビには「大思想家・ニシベ」とある。漢字でなくカタカナになっているのが愛嬌で、多少の悲哀も感じる。

 それにしても、この本の最終章「人工死に瀕するほかない状況で病院死と自裁死のいずれをとるか」は身につまされた。