既死者になった西部邁の自伝を読み返した2018年01月26日

『ソシオ・エコノミクス』(西部邁/中央公論社/1975.10.30)、『寓喩としての人生』(西部邁/徳間書店/1998.6.30)
 先日(1月21日)、西部邁が78歳で自死した。このニュースに接し、江藤淳の自死を想起した。妻に先立たれ自身の健康の衰えを自覚した保守派論客の自死に共通点を感じたのだ。だが、続報記事や過去の著作に目を通し、江藤淳のケースとは異なると思えてきた。

 私は西部邁の考え方に共鳴しているわけではないがファンだった時期がある。この人の名を知ったのは1975年の処女出版『ソシオ・エコノミクス』(中央公論社)を書店の店頭で手にした時だから、かなり昔だ。この本に出会った話は過去のブログ(唐牛健太郎の伝記の感想)に書いた。

 その後、西部邁はテレビに出演する論客になり多くの著書を世に出した。私は初期の5~6冊に目を通した。どれも、やや粘着質ながら論理的かつ浪漫的で陶酔的でもあるニシベ節とも言うべき独特な魅力の本だった。

 訃報に接し、『ソシオ・エコノミクス』をパラパラとめくり返し、『寓喩としての人生』(徳間書店/1998年6月)を読み返した。

 40年前には難解に感じた『ソシオ・エコノミクス』は、やや晦渋ではあるものの、現在の目から見ると意外にわかりやすい。経済学批判をベースに社会学やラディカル・エコノミクスクスを中心に社会科学の全体性の構築を目指す「稚気」にも近い初々しさを感じる。

 『寓喩としての人生』は59歳の時点で綴った自伝で抜群に面白い。著者の人生が興味深いのは確かだが、その人生のあれこれに関する「語り」に引き込まれる。ニシベ節全開である。歴史意識を語るなかで過去・現在・未来の人間を指す「既死者」「未死者」「未生者」という独特の言葉が出てくるのも興味深い。寓喩という言葉でゴチャゴチャと自伝執筆の言い訳をするのも愛嬌のある説得的な芸になっている。

 「未死者」から「既死者」へ移行してしまった西部邁は、その10日前のインタビューで「近年繰り返していた自らの自殺の話」をし、「数週間後には自分は生きていない」と語っていたそうだ。20年前の『寓喩としての人生』には次のような一節もある。

 「安楽死とか尊厳死とかいったような形容は私の最も嫌うところだ。それらは人間礼賛の成れの果ての表現にすぎない。あえていえば、単純死としての自殺、それが理想の死に方だとすべきではないのか。」

 西部邁の自死は江藤淳ではなく三島由紀夫の自死に近かったのかもしれない。

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