網野善彦の『無縁・公界・楽』は面白くて刺激的2018年01月08日

『[増補]無縁・公界・楽:日本中世の自由と平和』(網野善彦/平凡社ライブラリー)
 年末に『応仁の乱』(呉座勇一/中公新書)を読んで頭の中が少し日本中世モードになったのを機に、かねてから気になっていた次の本を読んだ。

 『[増補]無縁・公界・楽:日本中世の自由と平和』(網野善彦/平凡社ライブラリー)

 網野善彦の代表作で、初版は1978年、増補版が1987年、私が読んだ平凡社ライブラリー版が刊行されたのが1996年である。

 網野善彦の高名は以前から知っていたが、まとまった著作を読むのは数年前の『日本の歴史をよみなおす』(ちくま学芸文庫)に次いで2冊目にすぎない。『日本の歴史をよみなおす』は非農民や海洋に着目したとても面白い本で、網野善彦史観の概要を把握できた気分になっていた。『無縁・公界・楽』を読了して、その気分は浅薄な早やとちりだったと感じた。

 学術書に近いと思っていた『無縁・公界・楽』は想像していた以上にパッションの書だった。洋の東西から人類史までも視野に入れたスケールの大きさに驚いた。素人目にもかなり強引で大胆な論旨が展開されていて、確かに面白い。ひろげた「風呂敷」がうまく結ばれているかどうかはわからないが刺激的な内容だ。話題の書となり物議をかもしたのもよくわかる。

 「増補版」の約三分の一が初版の後に書き加えられた「補注」「補論」で、その多くは初版への批判に対する反論であり、この部分も面白い。門外漢の私が批判や反論の当否を判断することはできないが、辛辣な批判で指摘された事項をある程度は受け容れつつも見解の主旨を貫徹する著者の情熱に感服した。

 学問において信念と認識は別物であり、思い込みによって事実を変えることはできないだろう。だが、情熱がなければ歴史解釈の追求はできないとも思う。

 私が、それと知らずに網野善彦の文章に初めて接したのは1986年4月、『週刊朝日百科 日本の歴史(第1号)』を手にした時だった。当時、朝日新聞出版局は立て続けに週刊の大判百科を刊行していて、1986年4月からのテーマは「日本歴史」。図解の日本史百科に食指は動かなかったが、「(第1号)源氏と平氏」を手にし、その内容が高校日本史などで習った内容とは全く切り口の異なるユニークなものだと気づき、その魅力に惹かれて全133冊の購読を決めた。

 この「(第1号)源氏と平氏」の責任編集が網野善彦・石井進で、巻頭の「アジアと海の舞台を背景に」の執筆者が網野善彦だった。網野善彦はその他にも「(第3号)遊女・傀儡・白拍子」「(第6号)海民と遍歴する人びと」「(第12号)後醍醐と尊氏」「(第19号)庭」「(第28号)楽市と駆込寺<アジールの内と外>」「(第51号)税・交易・貨幣」などの責任編集をしている。私が「アジール」と言う言葉を知ったのもこの週刊百科によってだと思う。

 『週刊朝日百科 日本の歴史』が出た頃、すでに『無縁・公界・楽』は刊行されていて、網野善彦は話題の歴史学者だったはずだ。私がその名を認識したのは後年になってからだが、名前を認識する前からその魅力は感じていた。

 そんな記憶をたどれるのは、『週刊朝日百科 日本の歴史』全133冊を私自身が合本製本して今も手元に保存しているからだ。「製本」は私の趣味の一つである。