バルザックの『幻滅』で小説世界を堪能2017年11月03日

『幻滅 ⅠⅡ』(バルザック/生島遼一訳/世界文学全集4、5/河出書房新社)
◎小さい活字の試練

 ついにバルザックの『幻滅』を読んだ。実家を処分するときに引き取った半世紀前の「世界文学全集」(河出書房のグリーン版)に収録されているこの小説が気にはなっていた。2冊本の長編なので手を出しかねていたが、『谷間の百合』を読了してさらにバルザックを読んでみたいと思ったのだ。

 『幻滅 Ⅰ』(バルザック/生島遼一訳/世界文学全集4/河出書房新社)
 『幻滅 Ⅱ』(バルザック/生島遼一訳/世界文学全集5/河出書房新社)

 古い文学全集なので2段組で字が小さい上に印刷がかすれ気味のページもある。老眼が進行しつつあるわが眼球が若い頃に読んだこの文学全集の活字にまだ耐えられるかどうか試してみようとも思った。そして無事読了できた。2冊本と思って読み始めたが、2冊目の後半には別の小説(『ウジェニー・グランデ』)が収録されていて、実際は1冊半だった。とは言っても濃密な大長編である。

 私はこの長編を堪能できた。今までに読んだバルザックの小説(『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』『谷間の百合』)の中では一番面白かった。

◎多くの人物、多様な呼称

 バルザックも4冊目なので、その「人間喜劇」の世界には少し慣れてきたが、登場人物の多さにはうんざりさせられる。

 このテの小説は登場人物が多いと覚悟はしていて、人物名とその属性をメモしながら読み進めた。そのメモ用紙がすぐにゴチャゴチャになるので、途中でパソコン入力してプリントしたものにさらに手書きで書き足すということを何回かくり返した。普通の小説は半分も進行すれば新たな人物はあまり登場しないが、この小説は後半になってもどんどん新たな人物が出てくる。

 登場人物が多いのも大変だが、一人の人物が場面によって異なる呼称で出てくるので混乱する。例えば主人公には「リュシアン・シャルドン」「リュシアン」「シャルドン」「リュシアン・ド・リュバンプレ」「リュバンプレ」などの呼称があり、場面によって使いわけられている。混乱せずに読み進めるには人物メモが必須だ。

 読了後、メモした人数を数えてみると92人だった。全登場人物をメモしたわけではない。バルザックの「人間喜劇」は複数の小説に同じ人物が登場する仕掛けになっていて、巻末の訳者解説によれば『幻滅』の再登場人物は116人だそうだ。驚くべき人数だ。私がメモした登場人物より多い。私自身が確認できた再登場人物は3人に過ぎない(以前に3作しか読んでいないから当然だが)。

◎登場人物に辛辣な作者

 この小説は野心を抱いた青年の挫折の物語である。『幻滅』というタイトルから推測できるように、ハッピーエンドの話ではなく、勧善懲悪の逆に近い物語である。と言っても、悲惨な目にあう主人公は決して善人ではない。いわゆるバルザック的人物である。

 バルザックは主人公に対しても辛辣だ。登場人物のその後の運命をあらかじめ予告するような表現も多い。物語の興をそぐことになりかねないそんな書き方を押し通していくところに、バルザックのブルドーザーのような迫力がある。この過剰なエネルギーにはかなわない。

◎ウンチクも面白い

 『幻滅』は19世紀フランスの出版業界や新聞業界の裏表を描いた小説であり、その部分だけでも十分に面白い。次のような表現は、メディアの普遍的な課題を指摘している。

 「ジャーナリズムはまだ子供さ。やがて大きくなるよ。十年もたてば、万事が広告に屈服するようになるだろう」

 「新聞はもはや世論の啓蒙のためにではなく、世論にこびるためにつくられているんだ」

 そんな予見的指摘に加えて、19世紀社会の実相を表していると思えるさまざまなウンチクが散りばめらているのもこの小説の魅力だ。たとえば印刷、製紙、手形、訴訟、ファッションなどについて多くの言葉が費やされている。

◎没頭すれば堪能できる

 バルザックの『幻滅』は読者を19世紀フランスの濃密な世界に引きずり込む。この小説を堪能するには、この世界に没入した時間を過ごす必要がある。だからこま切れ読みは難しい。現実世界と小説世界を行き来するにはかなりのエネルギーが必要なので、それを繰り返すのは疲れる。こういう長編を楽しむには、ある程度のまとまった時間の確保が望ましい。

 今回、多少の「こま切れ読み」を余儀なくされ、そんなことを思った。

バルザックに引きずりこまれ『ウジェニー・グランデ』も読んだ2017年11月06日

『ウジェニー・グランデ』(水野亮訳/世界文学全集5/河出書房新社)
 バルザックの『幻滅』を2冊にまたがる「世界文学全集」(河出のグリーン版)で読了し、2冊目の後半に収録されていた『ウジェニー・グランデ』(水野亮訳)を未読のまま放置するのも気持ち悪いので、ついでにそれも読んでしまった。

 2段組みで約200ページだから長編小説と言うべきだろうが、短編小説のような読後感だ。バルザックの濃密な世界に引きずりこまれた状態の頭で読むからそんな気分になるのかもしれない。

 フランスの田舎町(ソーミュール)を舞台に、吝嗇で守銭奴の資産家(元は樽屋の親方)の父親とその娘(ウジェニー・グランデ)を中心にした19世紀前半の約10年間の物語である。比較的シンプルなストーリーで登場人物もさほ多くはなく、途中からおよその展開が見えてくる。それ故に読みやすいし面白い。

 『ウジェニー・グランデ』は恋愛小説の形式をとった経済小説でもある。大多数の登場人物たちが金銭欲にまい進する姿にはあきれてしまう。社会を動かすエネルギーをそこに見出したのはバルザックの慧眼なのだろう。身も蓋もない物語のエネルギーを感じる。

最近の小説も読んでみた2017年11月08日

『年刊日本SF傑作選:行き先は特異点』(大森望・日下三蔵編/創元SF文庫)、『あとは野となれ大和撫子』(宮内悠介/角川書店)
 このところ、バルザック、ゾラ、デュマなど19世紀フランスの小説を続けて読んだ。年を取り、未読の古典文学を読んでおかなければという駆け込み意識が出てきたせいかもしれない。

 古典を読むのはある種の自己満足であり、そんなものばかり読んでいると世捨て人になりかねないとも思う。まだ現世を超越する心境にはなれず、同時代の小説も読まねばとも思い、次の本を読んだ。

 『年刊日本SF傑作選:行き先は特異点』(大森望・日下三蔵編/創元SF文庫)

 2016年に発表された短編SFのイヤーズ・ベスト20編(内漫画3編)が収録されている。20人の作家の中で私が知っている(読んだことがある)のは5人(円城塔、眉村卓、北野勇作、谷甲州、上田早夕里)に過ぎない。このアンソロジーには作品ごとに簡単な作者紹介が掲載されていて年齢もわかる。日本SF第1世代の眉村卓以外はみんな私よりかなり若い作家だ。

 頭から順に全作品を読み、確かに新しい小説だと感じつつも、私の感覚が時代からズレつつあるとの認識を新たにした。私にとっては全般的には期待外れで、昔のSFの方が面白かったと感じてしまう。ここ何年かは、若い作家の話題作を読んでも共感できないことが多いのだ。

 とは言ってもいくつかの作品には感心した。『行き先は特異点』(藤井太洋)はグーグルやアマゾンなどの扱いに近未来を感じた。『太陽の側の島』(高山羽根子)は不気味な雰囲気が漂う不条理異世界小説だ。『悪夢はまだ終わらない』(山本弘)はうまいと思った。

 『スモーク・オン・ザ・ウォーター』(宮内悠介)はいかにもSFらしい楽しい小品で、作者紹介によればSF大賞や三島賞も受賞しているベテラン作家だ。たまたまカミサンがこの作家の次の長編を読んでいて、面白いというので読んでみた。

 『あとは野となれ大和撫子』(宮内悠介/角川書店)

 この小説は直近の直木賞候補作(受賞は逸した)だそうだ。読み始めると止まらなくなり、一気に読んでしまった。内容はぶっ飛んでいて展開が早い。ハリウッドのノンストップ・アクション映画のようだ。

 書きっぷりは軽いが舞台と題材は重い。中央アジアのアラルスタンという架空の国で日本人の両親をテロで失った女の子が大活躍する話である。周辺の国々の歴史や政治は現実の情況をふまえた設定になっていて、巻末には中央アジア関連の文献が列挙されている。

 〇〇スタンという国々の多い中央アジアは私の意識の中では地球上で最も遠い場所であり、それ故にロマンを感じる。『見知らぬ明日』(小松左京)、『天山を越えて』(胡桃沢耕史)などの小説がこのあたりを舞台にしていたが「とても遠い所」という強い印象だけが残っている。

 そんな地域の政治経済を題材にしているのだから、料理の仕方によっては重厚で緻密な大冒険小説にも成りえた小説だ。それを女子高生の学園祭のようなノリの小説に仕上げている所が何ともすごい。この軽さは何だろうと考えてしまう。

 面白いのは確かだが、これを新しいというべきかどうかは判断できない。

浅丘ルリ子主演の近未来SF芝居『プライムたちの夜』2017年11月10日

 新国立劇場小劇場で『プライムたちの夜』(演出:宮田慶子/主演:浅丘ルリ子)を観た。2026年という近未来の家庭劇である。浅丘ルリ子が主演するSF芝居という点に惹かれてチケットを購入した。

 1977年生まれの米国人劇作家ジョーダン・ハリソンの作品で、この作家の戯曲が日本で上演されるのは初めてだそうだ。

 舞台はある家族の居間、その空間だけで芝居は進行し、役者は4人だけだ。このシンプルな構造が好ましい。役者は4人だが登場人物(?)が6人という仕掛けも面白い。

 この芝居には家族を失った喪失感を癒すために故人そっくりに作られたアンドロイドが登場する。つい最近、ソニーの犬型ロボット「AIBO」の最新モデル発表がニュースになった。近い将来、人間を癒す機能に特化したアンドロイドが登場する可能性は高い。この芝居は近未来の家庭に発生するかもしれない新しい課題を描いているのだろうか。

 人間とロボット(アンドロイド)との葛藤やすれ違いを描いたSFはカレル・チャペック以来数多い。さまざまな物語が書かれてきたので、この芝居もその一種に過ぎないようにも思える。だが、アンドロイドが家庭内にいる世界をSF臭を消して普通に描いているところが21世紀的である。

 この芝居に登場する故人そっくりのアンドロイドはプライムと呼ばれる。人間たちはプライムがアンドロイドであることを知っており、プライムとの会話によって故人の思い出をインプットしていく。その過程がこの芝居の肝である。そこには必然的に記憶の可塑性、記憶のねつ造という問題が入り込んでくる。

 これは人工知能云々の問題というより、人間そのものの普遍的な問題である。だからこそ、人間との会話を重ねることによって自己形成(?)していくプライムたちが、人間抜きのプライムたちだけで会話を積み上げていく終幕シーンは、多様な解釈が可能で不気味だ。

忸怩たる思いにさせられる『世代の痛み』2017年11月12日

『世代の痛み:団塊ジュニアから団塊への質問状』(上野千鶴子・雨宮処凛/中公新書ラクレ)
 『世代の痛み:団塊ジュニアから団塊への質問状』(上野千鶴子・雨宮処凛/中公新書ラクレ)

 1948年生まれの団塊世代・上野千鶴子と1975年生まれの団塊ジュニア・雨宮処凛の対談本である。私は上野千鶴子と同い年、わが長女は雨宮処凛より一つ上、同世代であるゆえに『世代の痛み』というタイトルがイタイ。

 団塊世代論はもうタクサンだと思いつつ、団塊ジュニアとの絡みとなると現代につながる数十年の総括かと考え、つい手が伸びた。

 上野千鶴子はコワイ人なの敬して遠ざかるようにしていたのに、この対談を読んでしまい、あらためて叱責糾弾されている心地悪さを味わった。本書は「団塊世代」と「フェミニズム」に関わる対談で、私たち団塊のオトコは「いい気なオヤジ」となじられている。

 上野千鶴子は「全共闘→連合赤軍」がその後40年にわたる呪縛の時代を招来したと見ている。確かにそうかもしれない。わが世代の責任であり、その子の団塊ジュニアはロスジェネ世代と呼ばれるようになった。忸怩たる思いにならざるを得ない。

 「学生運動はどんどん遠隔目標を作り、一番遠いシンボルに革命という妄想があった」「遠隔目標を作れば作るほど、勝てない闘争になっていく。やはり、目の前の小さな勝利が大切ですね」と語る上野千鶴子はおそらく正しいのだろう。遠隔目標のある大きな物語にも妖しい魅力的はあるのだが…

 雨宮処凛の次のような発言にも身につまされた。

 「後になってインテリの人たちが、おまえらはバカで貧乏だから騙されて小泉に投票したんだ、みたいなことを言ったりもした。そういう言い方はひどいですね。すごく差別的だと思いました。バカで貧乏なやつは投票にいくな、みたいな。そこでまたリベラルな人が嫌いになった人もいる。」

 なんでこんな時代になったのだろうと思うことの多い昨今だ。だが、こんな時代にしたのは、私たち自身だという当然のことを想起させられる対談本だった。

「筒井康隆自作を語る#4」に行った2017年11月13日

「筒井康隆自作を語る#4」のポスター、『筒井康隆コレクションⅦ 朝のガスパール』(日下三蔵・編/出版芸術社)
 11月12日、『筒井康隆コレクション』(全7巻)完結を記念したトークイベント「筒井康隆自作を語る#4」に行った。会場で、予約していた『筒井康隆コレクションⅦ 朝のガスパール』(日下三蔵・編/出版芸術社)も入手した。

 83歳の筒井康隆氏は元気で、今も文芸誌に短編小説を発表している。この調子で行けば、まだ何冊も新作(短編集。ひょっとした長編も)が出そうだ。

 あい変わらずの軽妙で知的なトークだが、最後(?)の長編『モナドの領域』は、神を登場させることで「神は存在しないということを書いた。だから最後の小説だ」との述懐に明晰な作家精神を感じた。近作短篇は耄碌ハチャメチャ作風だが、約20年前からあえて「老人」を演じているとポロリと語るところにこの作家のエネルギーを感じた。

 筒井康隆氏は短編も長編もたくさんあり、どれもが独特の傑作であり、どれが一番かは読者も判断に迷う。自ら「代表作がない作家」と語り「このままでは『時をかける少女』の作家と記憶されそうだ。それでもいいのだが…」とつぶやく姿が印象的だった。代表作と思える作品が多すぎる作家なのだ。

 『筒井康隆コレクション』(全7巻)はメインの作品の他に落穂ひろい風にレアな文章を収集収録しているのが魅力だ。今回入手した第7巻には、1966年に発行された「SF新聞 創刊号」に載った「SFを追って」が収録されていた。私はこの「SF新聞 創刊号」を発行当時購入し、その後も大事に保管してきたはずなのだが、いつの間にか紛失してしまった。「SFを追って」を読み返し、往時の記憶が懐かしくよみがえってきた。

『騙し絵の牙』は出版という構造不況業種の業界小説2017年11月22日

『騙し絵の牙』(塩田武士/KADOKAWA)
 現代を反映した面白い小説を読んだ。

 『騙し絵の牙』(塩田武士/KADOKAWA)

 著者は1979年生まれ。山田風太郎賞を受賞しているそうだ。私にとっては初読の作家だ。

 表紙や扉に俳優・大泉洋の写真が掲載されていて、オビには『唯一無二の俳優を「あてがき」した社会派長編』とある。俳優を「あてがき」した戯曲や脚本はあるが小説は珍しい。この小説は現在のところ映像化されているわけではなく、小説の売り出し方の新たな試みのようだ。本文内にも挿絵替わりに大泉洋の写真が何枚も挿入されている。

 そのような「よくわからない」新機軸を打ち出しているところに、この小説の内容に連動した仕掛けが潜んでいる。この小説は「本や雑誌が売れない時代にどうやって小説を売るか」を題材にした出版業界小説なのだ。

 大泉洋が扮する主人公・速水輝也は大手出版社のカルチャー誌の編集長で、廃刊の瀬戸際にある雑誌の立て直しに苦闘している。私は出版の現状をよく知っているわけではないが、構造不況業種と言われる出版業界の実情を描き出していると思えた。アマゾンを思わせる企業も出てくる。

 本書にはパチンコ業界も出てくる。小説やアニメが版権収入を得る先としてパチンコが大きなウエイトを占めつつあることを初めて知った。確かに世の中は変わりつつある。

 デジタル化の大波に晒されている出版業界を描いた『騙し絵の牙』の読みながら、先日読んだバルザックの大作『幻滅』を想起した。新聞・広告などのジャーナリズの勃興期にうごめく人々を描いた『幻滅』の現代版が活字メディアの衰退期にうごめく人々を描いた『騙し絵の牙』と言えなくもない。そう思うと登場人物たちもバルザック的人物のように見えてきた。彼我の重量感の違いは19世紀と21世紀の違い。いたしかたない。

 (蛇足)
 本書を読み終えて、この小説の版元が「角川書店」でなく「株式会社KADOKAWA」だと気づいた。手元の角川文庫の発行も「株式会社KADOKAWA」になっている。いつの間にか「角川書店」は「株式会社KADOKAWA」に変わっていたのだ。本書の内容を反映していると感じた。

木彫のサイドテーブル組み立てに苦闘2017年11月24日

塗装前の部品と完成品
◎彫りの後に試練

 木彫でアカンサス模様のサイドテーブルを作った。このサイドテーブルは天板1枚、脚板2枚、幕板2枚で出来ている。天板以外は同じ物が2枚ずつで模様は左右対称だ。だから木彫は同じ彫りを4回ずつくり返す職人作業だった。その作業の後に試練があった。

◎ダボ接続を覚悟

 彫った後は塗装と組み立てである。釘や木ネジを使えない形なので接着剤に頼ることになる。だが、負荷のかかるテーブルを接着剤だけで組み立てるのは心もとない。ダボを使うことにした。

 私はダボ用ドリルを持っていて、過去に何回か木製ダボを使った工作をしたことはある。その経験から、素人が箱モノをダボで接続することの難しさを知っている。ダボ穴の位置が少しでもズレたり、ダボ穴が斜めに空いたりすると、接続部に隙間ができたり、木材に過剰な負荷がかかって割れたりする。今回のサイドテーブル組み立てには細心の注意が必要だと覚悟した。

◎板が割れた

 塗装はとの粉で目止めしてから油性ニスを数回塗る。塗装作業で一番大変なのがとの粉落としだ。布、歯ブラシ、サンドペーパなどでとの粉を落とすと粉が宙を舞う。落とし残しがあると綺麗に塗装できない。当然、マスクでの作業だ。そのマスクもすぐに内側まで汚れてしまう。

 脚板のとの粉を落としているとき、表面の亀裂に気づいた。彫っているときにはなかった亀裂で、乾燥のせいのようだ。ボンドでその亀裂を修復しようと思い、ボンドを塗って亀裂をふさぐ方向に重しを乗せた。すると、脚板は真っ二つに割れてしまった。

◎板は反っていた

 割れた脚板はボンドで接着しなければならない。今度は慎重を期して、接着面を固定するのにゴム紐を何重にも掛けることにした。ゴム紐を用意するため、接着作業は翌日になった。その時点で、接着面がぴったり合わないことに気づいた。表面を合わせると裏面に少し隙間ができ、裏面を合わせると表面にすき間ができる。板が反っているのだ。

 もう一方の脚板や天板を確認すると、これもしっかり反っている。このままでは組み立て不能だ。

◎また反った

 割れた脚板の接着は、表面をぴったり合わせる状態で思いの外うまくいった。かなりしっかり接着できたのはゴム紐の威力だ。

 次は反りの修復である。との粉を塗った状態の天板と脚板の凹面側を水刷毛で湿らせ、凸面側を電気ストーブで温めた。すると1時間ほどで反りは元に戻った。水刷毛と電気ストーブの威力に驚くと同時に、木材は簡単に反るものだとあらめて認識した。

 反りが直り、との粉を落とした板に油性ニスを塗る。塗ったニスはすぐに布で拭き取って乾かす。この作業を4回ほどくり返すとほどよいツヤの仕上がりになった。

 塗装が完了した脚板や天板をよく見ると、また反っている。前回よりは少ない反りだが組み立てると隙間が出来てしまう。

◎反り返し

 塗装した板は水をはじき、水分を吸収しにくい。塗装した板の反りの修復はやっかいだと思い、前回とは方法を変えた。床にシートを敷き、その上に濡れたタオルを置き、板の凹面を下にして置く。その上に新聞紙とシートを敷き、同じように濡れタオルと別の板を凹面を下に置く。このように、天板と脚板2枚を塗れタオルでサンドイッチ重ねにし、その上に重し(約30冊の厚めの本)を置いた。

 この状態で1晩おけば反りも直ると思った。翌日は所用があり、重しを外したのは翌々日になった。驚いたことに、重しを外すと天板も脚板も反対方向に大きく反っていた。過ぎたるは及ばざるがごとし。水分を吸収し過ぎたのだ。木材は簡単に反るものだとの認識をさらに強くした。

◎やっと組み立て

 反対方向に反った板を元に戻すには凸面を電気ストーブで乾かせばいいだろうと考えた。2~3時間で戻るかと思っていたが約10時間かかった。反りが戻り過ぎるのを警戒して、板につきっきりの時間を過ごした。

 何とか平らになった板をすぐに組み立てることにした。板のまま放っておくとまた反るかもしれない。

 で、やっと細心の注意を要するダボの穴開けとダボ接続の作業に入った。かなり正確に穴を空けたつもりでも、やはり微妙に位置がずれて板と板はぴったりくっつかない。そこで、一方の穴はドリルで少し広げてアソビをもたせた。接続強度は多少落ちるかもしれないが仕方ない。ダボ穴にもボンドを入れるから何とかなるだろうと考えた。

 そんなあれやこれやでやっとサイドテーブルが完成した。乾燥や湿気でひび割れたり変形しないことを祈っている。