デュマの『三銃士』の完訳版は面白かったが…2017年10月21日

『三銃士(上)(下)』(デュマ/生島遼一訳/岩波文庫)
 デュマの『三銃士(上)(下)』(生島遼一訳/岩波文庫)を読んだ。完訳版である。

 先月、『レ・ミゼラブル』の完訳版を読んだのを機に小学生時代に読んだ『ああ無情』を読み返し、ついでに同じ『少年少女世界文学全集26』に収録されていた『三銃士』を読み返した。その『三銃士』が駆け足のあらすじ紹介のような内容で楽しめなかったので、やはり完訳版を読まねばという気分になったのだ。

 さすがデュマはストーリーテラーである。背景が把握できず辻褄が納得できない物語であっても、いろいろ書き込んであるので面白く読ませてしまう。雑で乱暴なところもあるが十分に楽しめた。

 読了後、この話のあらすじを1ページ程度にまとめることを想像してみた。わけのわからない話になりそうな気がする。ディティールの情景を捨象してしまうと面白さが消えてしまうのだ。あらすじを読むだけではヘンテコな話だとの印象しか残らない歌舞伎に似ている。そんな歌舞伎も舞台を観ると十分に楽しめるのだ。

 『三銃士』は19世紀の新聞連載小説で舞台は17世紀初頭、当時の時代小説である。主人公のダルタニャンは宮本武蔵とほぼ同じ時代の人だ。19世紀のフランスの人々は、大正・昭和の日本人が吉川英治の『鳴門秘帖』や『宮本武蔵』(二つとも私は未読)の新聞連載を読むのと似た気分で『三銃士』を読んだのかもしれない。

 デュマの19世紀の読者に向けた次のような述懐が面白い。

 「(…)こんなことをするのは悪趣味である。今日の我々の道義心から見れば。唾棄すべき行為でもあろう。だが、その当時は今日ほど、行いを慎まなかったのだ。」

 「ある時代の人間の行動を別の時代の尺度ではかるのは少々無理であろう。今日でなら体面を重んじる人に恥辱と考えられることでも、その当時には何でもない普通のことであったので、(…)」

 現代の私から見れば19世紀の人々の考えや行動にも理解しがたいところがある。そんな19世紀のフランス人でも違和感をいだく部分が『三銃士』にはあるのだ。だから、フランスの歴史にも詳しくない私が納得できない部分があって当然だろう。

 『三銃士』はフィクションだが主人公にはモデルがあり、ルイ13世、リシュリユー枢機官(宰相)、アンヌ王妃など実在の人物も登場する。この実在の3人(国王、宰相、王妃)の関係がわかりにくい。対立しながら協調もしていて、歴史を知らない身には把握しにくい。だが、そこに歴史背景のリアルがあるのだと思う。その認識は『三銃士』を読んだ収穫のひとつだった。

 なお、私は『三銃士』の「全訳版」を読んだつもりだったが、そうではなかった。デュマはこの物語の続編を書いていて、『三銃士』は全3部からなる長大な『ダルタニャン物語』の第1部にすぎないそうだ。第1部の「完訳版」を読了したいま、続編を読む気力はない。デュマを読むなら『モンテクリスト伯』を再読したい。

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