日本最西端の与那国島で「海の道」を感じた2017年10月05日

航空機から見た与那国島の祖納、久部良を眺望できる「日本国最西端の地」、『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(奥野修司/文春文庫)
◎与那国島への関心の動機

 日本の最西端、与那国島に行った。那覇から約500㎞、プロペラ機で約1時間30分だ。台湾までは111㎞、那覇よりは遙かに近い。だが、与那国島と台湾の間の定期的な航路は現在はない。

 与那国島に行きたいと考えた動機は二つある。一つは今年4月に初めて台湾を訪れ、台湾への関心が高まり、日本で一番台湾に近い与那国島への興味が湧いたからだ。台湾は私の亡母が生まれた地である(ちなみに私の妻の亡母はサイパン生まれだ。私たちの親はそんな世代だったのだ)。もう一つの動機は『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(奥野修司/文春文庫)という本を読んだことだ。終戦直後の台湾・香港と沖縄・本土にまたがる密貿易時代を活写したノンフィクションで、その中では与那国島が大きなウエイトを占めている。

 この二つの動機は台湾絡みという点では同じだ。与那国島はさいはての国境の島だが、海洋進出の最前線の島にも見える。

◎レンタカーなら1日で何周もできる人口1700人の島

 与那国島には1泊し、レンタカーを25時間借りて島のあちこちを巡った。1周約25㎞で主要な道路は舗装されている。車なら1日に何周もできる。私は全周した後、縦断道を使った西半周と東半周を1回ずつし、その間に部分的な往復を何度かした。それだけで島の全体的な様子はわかった気がした。

 この島には祖納、久部良、比川の3つの集落がある。町役場のある祖納に宿泊し、夕食前と朝食後に町内を散策した。それだけで路地の入り組んだこの町がわが庭のように感じられるようになった。

 与那国島の現在の人口は1,700人、戦前は5,000人以上いたそうだ。近年、人口は減少し続け1,500人台になったが、1年前に自衛隊の駐屯地(100人)ができて少し上向いた。自衛隊駐屯に関しては島を二分する論議になり、住民投票で受け入れ派が上回った。

 それはともかく、そんな与那国島にかつては人口2万人の時代があった。終戦後の1948年頃から約3年間の密貿易の時代である。物資不足の時代だったので密貿易が大きな利益を生み出し、その主な舞台になったのは台湾に最も近い港町、久部良だ。与那国島の久部良の狂騒の様子を『ナツコ 沖縄密貿易の女王』で知り、この港町に強く惹かれた。

 レンタカーで訪れた久部良で人口2万人時代の痕跡を確認することはできなかった。だが、想像していた以上に立派な漁港だった。「日本最西端の地」の碑がある展望台からは久部良の全体を一望できる。コンパクトにまとまったいい町に見えた。

◎昔はおしゃれな島だった

 かつて台湾が日本の植民地だった頃、与那国島にとって台湾は身近な存在で多くの島民は台湾と行き来していた。日本は殖民地・台湾にかなりの規模の投資をしていたから、ある意味で内地以上に近代化された場所だった。

 那覇の書店で入手した『与那国台湾往来記』(松田良孝/南山舎)という本に戦前の面白いエピソードが載っていた。与那国島から那覇の高等女学校に進学した女学生は台湾経由で入手した物品を持参していたので、那覇の同級生から「おしゃれだから与那国はいいね」とうらやまれたそうだ。

 いまの与那国島はひなびた田舎で、那覇は中国からの観光客があふれるオシャレな都会に発展している。だが、かつては与那国島が那覇からうらやまれる時代もあったのだ。今回の与那国島訪問で、与那国島の栄華のよすがを偲べればと思っていたが、短い滞在だったのでそんな探索は果たせなかった。

◎海洋は道であると再認識

 与那国島の集落や墓地は石垣島や沖縄本島と似ている。同じ沖縄県であり、かつては琉球王国のテリトリーだったのだから当然かもしれない。だが、不思議でもある。沖縄本島と与那国島は500㎞も離れている。端から橋までの距離がこんなに遠い都道府県は他にはない。

 そんなに離れていても共通のローカル文化をもっているのは、遠い昔から人が交流していたからだ。対岸など見えるはずもない水平線だけの大海を果敢に航海する人々が昔からいたのだ。ある種の人間にとって海路は陸路以上に近い道だったのかもしれない。

 そんなことを考えると、9年前に客船で太平洋を横断したときの思いがよみがえってきた。約4000㎞も離れたイースター島とタヒチ島が同じポリネシア文化圏に含まれいることに驚き、遠い昔から広大な大洋を航行する人々がいたことに感動した。

 水平線しか見えない海が「道」に見えるということが人類の探求心の証であり人類進化の源泉のように思えてくる。与那国島を訪れて大海への船出の魅力を再認識し、そんなことを考えた。

『ハプスブルク帝国』の最終章「ハプスブルク神話」は面白い2017年10月08日

 『ハプスブルク帝国』(岩崎周一/講談社現代新書)は出色の新書だった。1974年生まれの若い研究者による教科書風に密度の濃い本で、従来の見解を見直す最近の学説紹介も多い。

 私がハプスブルク家に興味をもったのは6年前だ。ウィーン、プラハ、ブダペストなどのハプスブルク都市へ観光旅行に行くのを機にハプスブルクという言葉が表題にある一般書を10冊ばかりまとめて読んだ。それだけでは1000年に近いハプスブルクの歴史を理解した気分にはならず、長大なドラマの粗筋に触れただけに感じた。その記憶もすでにおぼろだ。

 そんな時に本屋の店頭で本書が目に入り、おぼろな記憶を再生させるのに手頃に思えた。読み始めてみると、かつて私が読んだハプスブルク本(その大半は新書本)とは趣が違うと感じた。サラサラと速読できないのだ。

 本書は圧縮記述された教科書に近いので、一つひとつの文章の意味を咀嚼しながら読み進めないと前後の脈略がわからなくなる。また、ハプスブルク周辺の歴史(フランス、プロイセン、ロシア、イギリスなどの歴史)の基本は読者が把握しているという前提で記述されているので、知識があやふやな私などはたびたび電子辞書を引きながら読み進めねばならない。

 と言って、本書は無味乾燥な教科書的記述に終始しているわけではない。各時代ごとの政治・経済・文化を目配りよく概説しながら、随所に先人の興味深い述懐が引用されていて、つい引き込まれてしまう。

 本書によって蒙を啓かれた事柄は多く、特に啓蒙君主と呼ばれる人たちについてはあらためて興味を抱き、そもそも蒙を啓くとは何を意味し、啓蒙の時代をどう評価するかをじっくり考えてみたくなった。

 本書の圧巻は最終章『ハプスブルク神話』である。この章では第一次世界大戦でハプスブルク君主国が消滅してから直近の2017年までを扱っている。ハプスブルク君主国の後継国家(オーストリア、ハンガリー、チェコ、ルーマニナなど)とハプスブルク家の末裔に関する話は、私の知らない事項にあふれていて、とても興味深かった。

 ハプスブルクの時代を懐かしく肯定的に語るツヴァイク、シュンペーター、ミラン・クンデラなどの言説も興味深いが、末裔のオットーの人物像もなかなかである。

 欧州議会の議員で「パン・ヨーロッパ」運動の総裁でもあったオットーは、国民国家を超えたハプスブルクの伝統精神を欧州統合に活かした人物だろうと勝手に認識していたが、そんなに単純に評価できる人物ではなかったようだ。

 また、ハプスブルクを否定したはずのオーストリアが今やハプスブルクを観光資源にしているという指摘にも得心した。中欧への観光旅行でエリザベート(シシー)が観光の目玉になっていることに共感と違和感の混じった不思議な感慨を抱いたことを思い出し、その源泉が多少なりともつかめた気がした。

総選挙さなかの『トロイ戦争は起こらない』上演はタイムリー2017年10月11日

 総選挙公示の翌日、新国立劇場中劇場で『トロイ戦争は起こらない』(作:ジャン・ジロドゥ/演出:栗山民也/主演:鈴木亮平)を観た。

 作者とタイトルに惹かれてチケットを購入したが脚本は未読で、どんな内容か知らないままに観劇した。前半は普通の観劇気分でそれなりに面白く眺めていたが、後半から舞台に引き込まれた。見ごたえのある芝居らしい芝居だった。はからずも、選挙真っ最中のいまの日本の情況に響きあう上演に思えた。

 ジロドゥという劇作家については外交官だったということ以外はあまり知らない。かなり昔にジロドゥの芝居を観たというかすかな記憶があるだけで、演目も内容も失念している。日本での上演記録を検索したが、それを眺めても記憶がよみがえってこない。本当に観たかどうかもあやふやになる。そんな宙ぶらりんな感覚を多少でもスッキリさせたいというのが、今回のジロドゥ作品を観る動機にひとつだった。

 ジロドゥはフランスの外交官で第一次世界大戦に従軍している。『トロイ戦争は起こらない』の初演は第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の1935年、ジロドゥ53歳のときだ。彼は大戦終結前の1944年に病死している。

 1935年はヒトラーが総統になった翌年、ラインランド進駐の前年である。この年に上演された『トロイ戦争は起こらない』はトロイとギリシアという古代の戦争を題材にしながら、第二次世界大戦の予感を色濃くはらんでいる。芝居のタイトルとは裏腹にトロイ戦争が起こったのは歴史的事実だ。

 今回の公演も舞台衣装は古代の服装と20世紀の独仏の軍服が混合し、芝居の意図を明示している。圧巻はトロイの王子エクトール(鈴木亮平)とギリシアの知将オデュセウス(谷田歩)の1対1の対話シーンだ。20世紀の外交官の真情が反映された現代劇の趣に迫力がある。

 「戦争は起こらない」「戦争は起こる」のせめぎあいは21世紀の今日まで継続している外交課題である。だれもが戦争を望まないにもかかわらず、戦争を煽る心情は容易に世の中を席巻する。そんなメッセージが伝わってくる芝居だ。

 終演後、劇場外に出ると、甲州街道に選挙カーのスピーカーが響いていた。

ゾラの『制作』(岩波文庫)の表紙絵に違和感があったが…2017年10月15日

『制作(上)(下)』(エミール・ゾラ/清水正和訳/岩波文庫)
 ゾラの『制作(上)(下)』(清水正和訳/岩波文庫)を読んだ。ゾラの長編は5年前に代表作『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』を読み、それで十分と思っていたが新たな長編に手を出したのは、先月、映画『セザンヌと過ごした時間』を観たからだ。ゾラとセザンヌの友情を描いたこの映画の感想は以前のブログに書いた。

 映画『セザンヌと過ごした時間』によって、ゾラが少年時代からの親友だったセザンヌとの交友を題材にした小説を書き、それがきっかけでセザンヌと疎遠になったという話を知った。その小説が『制作』だ。

 『制作』の主人公は必ずしもセザンヌだけをモデルにしているのではなくマネなど同時代の画家も反映されているという事前知識があった。だから、入手した岩波文庫版のカバーを見て多少の違和感を抱いた。『制作』は上下2冊に分かれていて、上巻の表紙はセザンヌの絵、下巻の表紙はモローの絵だ。上巻の表紙は妥当だが、下巻のモローがよくわからない。ここはマネの絵だろうと思った。

 マネの『青年ゾラの肖像』は上巻の口絵に載っているのでマネが無視されているわけではない。読む進めていくと、この翻訳版には随所に挿絵のような形で物語の情景に対応したマネ、セザンヌ、モネなどの風景画の写真が掲載されていてなかなか楽しい。物語のシーンを描いた版画も挿入されていて、これは原書の挿絵をそのまま掲載したと推測される。

 さて、問題のモローの絵である。私の違和感は小説読了後に訳者の「解説」を読んで解消された。清水正和氏の「解説」は読み応えのある力作だ。ゾラの生涯と作品の時代背景を要領よく解説すると同時に立派な「小説『制作』論」になっている。

 清水正和氏によれば、主人公のクロードにセザンヌやマネが反映されているのは小説の前半までで、後半のクロードは「全くゾラの自由な創造人物と化している」そうだ。後半の主人公については次のように述べている。

 「七〇年代の印象派全盛期すらも素通りして、むしろ八〇年代の美術界における象徴的神秘的傾向の台頭を反映しており、クロードがあのギュスターヴ・モローのような一種の幻想的寓意画家に変貌している」。

 ユニークな指摘だ。時代に反逆した若者たちが十数年の時間を経て挫折していくという普遍的な青春の物語を超える視点でもある。苦い結末で終わる青春小説という単純な読み方しかできなかった私には刺激的で勉強になった。この解説を読んで下巻の表紙にモローの絵を採用した理由がわかり、あらためて大胆な起用だと感心した。

白石加代子女優生活50周年記念公演を観て懐旧2017年10月18日

 池袋の「あうるすぽっと」で「白石加代子女優生活50周年記念公演」と銘打った『笑った分だけ怖くなる vol.2』を観た。白石加代子と佐野史郎による朗読劇で、演目は『乗越駅の刑罰』(作・筒井康隆)と『ベーコン』(作・井上荒野)の2作。

 この公演に食指が動いたのは白石加代子と筒井康隆という怖ろし気な取り合わせに惹かれたからだ。白石加代子の舞台を観るのは学生時代に「早稲田小劇場」の『劇的なるのをめぐって 2』以来だと思う。だとすれば約半世紀ぶりだ。

 1960年代末から1970年代初頭の時代、白石加代子はアングラの女王的な怪女優だった。当時の彼女が何歳だったか知らないが、最近たまたまちらりと朝ドラで観た彼女の印象は昔とさほど変わらない。

 約半世紀ぶりに舞台で観た白石加代子は昔の「化け物」的な印象が残ってはいるものの洗練された大女優のようでもあった。

 『乗越駅の刑罰』も『ベーコン』も観ているうちに異世界に引き込まれていくような舞台だった。カーテンコールの際に、白石加代子と佐野史郎の短いトークがあり、その内容が私の遠い記憶をゆさぶった。

 白石加代子と佐野史郎の接点に関するトークだった。白石加代子は「早稲田小劇場」時代に『少女仮面』に主演している。『少女仮面』は「状況劇場」の唐十郎が「早稲田小劇場」のために書いた戯曲で、岸田戯曲賞を受賞した。「劇壇の芥川賞」と言われる岸田戯曲賞を怪しげなアングラが受賞したのは大きな話題になった(その後、唐十郎がホンモノの芥川賞まで受賞するとは予測できなかった)。佐野史郎は唐十郎の「状況劇場」の出身であり、そこに白石加代子と佐野史郎の接点がある。そんな昔話のトークだった。

 私は白石加代子の『少女仮面』を観ていない。伝説の舞台との噂は聞いていた。戯曲は単行本刊行時に読んだ。後に上演された状況劇場版(主演:李礼仙)や西武劇場版(主演:渡辺えり子)の『少女仮面』を観た記憶はある。

 「あうるすぽっと」から帰宅し、書棚の奥から『少女仮面:唐十郎作品集』(学藝書林/1970.3.5)を引っ張り出した。口絵には白石加代子の『少女仮面』舞台写真が載っている。パラパラと戯曲を読み返すと、懐かしくも印象深い挿入歌に遭遇した。

  時はゆくゆく乙女は婆アに、
  それでも時がゆくならば
  婆アは乙女になるかしら

 メロディも鮮明によみがえってくる。昔、「唐十郎:四角いジャングルで歌う」というLPレコードで繰り返し聞いたからかもしれない。

 この歌詞、女優生活50周年の白石加代子に重なってくる。

デュマの『三銃士』の完訳版は面白かったが…2017年10月21日

『三銃士(上)(下)』(デュマ/生島遼一訳/岩波文庫)
 デュマの『三銃士(上)(下)』(生島遼一訳/岩波文庫)を読んだ。完訳版である。

 先月、『レ・ミゼラブル』の完訳版を読んだのを機に小学生時代に読んだ『ああ無情』を読み返し、ついでに同じ『少年少女世界文学全集26』に収録されていた『三銃士』を読み返した。その『三銃士』が駆け足のあらすじ紹介のような内容で楽しめなかったので、やはり完訳版を読まねばという気分になったのだ。

 さすがデュマはストーリーテラーである。背景が把握できず辻褄が納得できない物語であっても、いろいろ書き込んであるので面白く読ませてしまう。雑で乱暴なところもあるが十分に楽しめた。

 読了後、この話のあらすじを1ページ程度にまとめることを想像してみた。わけのわからない話になりそうな気がする。ディティールの情景を捨象してしまうと面白さが消えてしまうのだ。あらすじを読むだけではヘンテコな話だとの印象しか残らない歌舞伎に似ている。そんな歌舞伎も舞台を観ると十分に楽しめるのだ。

 『三銃士』は19世紀の新聞連載小説で舞台は17世紀初頭、当時の時代小説である。主人公のダルタニャンは宮本武蔵とほぼ同じ時代の人だ。19世紀のフランスの人々は、大正・昭和の日本人が吉川英治の『鳴門秘帖』や『宮本武蔵』(二つとも私は未読)の新聞連載を読むのと似た気分で『三銃士』を読んだのかもしれない。

 デュマの19世紀の読者に向けた次のような述懐が面白い。

 「(…)こんなことをするのは悪趣味である。今日の我々の道義心から見れば。唾棄すべき行為でもあろう。だが、その当時は今日ほど、行いを慎まなかったのだ。」

 「ある時代の人間の行動を別の時代の尺度ではかるのは少々無理であろう。今日でなら体面を重んじる人に恥辱と考えられることでも、その当時には何でもない普通のことであったので、(…)」

 現代の私から見れば19世紀の人々の考えや行動にも理解しがたいところがある。そんな19世紀のフランス人でも違和感をいだく部分が『三銃士』にはあるのだ。だから、フランスの歴史にも詳しくない私が納得できない部分があって当然だろう。

 『三銃士』はフィクションだが主人公にはモデルがあり、ルイ13世、リシュリユー枢機官(宰相)、アンヌ王妃など実在の人物も登場する。この実在の3人(国王、宰相、王妃)の関係がわかりにくい。対立しながら協調もしていて、歴史を知らない身には把握しにくい。だが、そこに歴史背景のリアルがあるのだと思う。その認識は『三銃士』を読んだ収穫のひとつだった。

 なお、私は『三銃士』の「全訳版」を読んだつもりだったが、そうではなかった。デュマはこの物語の続編を書いていて、『三銃士』は全3部からなる長大な『ダルタニャン物語』の第1部にすぎないそうだ。第1部の「完訳版」を読了したいま、続編を読む気力はない。デュマを読むなら『モンテクリスト伯』を再読したい。

『筒井康隆入門』(佐々木敦)を読んで走馬燈がよぎる2017年10月22日

『筒井康隆入門』(佐々木敦/星海社新書)
 『筒井康隆入門』(佐々木敦/星海社新書)を半日で一気読みし、頭がクラクラしてきた。わが人生の最近50年(高校生時代から68歳まで)を半日の時間旅行で駆け抜けた気分になり、走馬燈がチラチラしている。

 著者は「はじめに」で次のように書いている。

 「本書は、筒井康隆の作品を、デビュー作から最新作に至るまで、小説を中心として、ほぼ発表順に読んでいくことで、この稀代の大作家の肖像を、出来るだけ総体的に描き出すことを目的としています」

 著者の佐々木敦氏は3年前に『あなたは今この文章を読んでいる:パラフィクションの誕生』を上梓した批評家で、私はこの本にかなりの刺激を受けた。筒井康隆氏が同書に共鳴して「メタパラの七・五人」という短編を書いたことも承知している。

 『筒井康隆入門』のオビには筒井康隆氏自身の推薦文もあり、筒井康隆ファンとしては読まないわけにはいかない。佐々木敦氏はこの新書を執筆するにあたって筒井康隆氏の全作品を読み返したそうだ。何とも羨ましい難行苦行だ。

 私は高校1年だった1964年以来の筒井康隆ファンであり、最初の短編集『東海道戦争』刊行(1965年10月)の前から、雑誌(『SFマガジン』『別冊宝石』)に載った筒井作品に惹かれていた。それから半世紀余り、ほぼすべての筒井作品を読んでいると思う。だから、本書を読んでいると、個々の筒井作品を読んだ時点のあれこれがよみがえってきてしまうのだ。

 佐々木敦氏は、私が初めて筒井作品に接した1964年生まれで、私より16歳若い。つまらない自慢ではあるが、読み始めたのは著者より早い。本書の「はじめに」でチラリと触れているように、デビュー時からのファンは当然ながらいまや「高齢者」なのである。そんな高齢者の目で見て、本書に些細な間違いも発見した。それは文末の蛇足に書く。

 閑話休題。一冊の新書本で筒井康隆氏が半世紀にわたって持続的に生み出してきた膨大な作品群を概観すると、あらためてこの作家の凄さがわかる。20代の初期作品から80代の最新作品に至るまで、その面白さは変わらないのに作風は千変万化、自己模倣に陥ることなく読者を驚かし続けている。

 本書を読むと、これまでに漠然としか把握できていなかった筒井ワールドの全貌が整理された形で見えてくる。その世界に「愛妻もの」というジャンルがあることも本書ではじめて認識し、言われてみればその通りだと得心した。

 本書の圧巻は2008年以降を対象にした最終章「GODの時代」である。次の指摘が面白い。

 「彼は自分が「後期高齢者」であるという紛れもない事実を受け入れる/演じてみせることで、ある意味ではそれを利用して、今なお、これまでやったことのない小説のあり方を模索しているのだと筆者には思えるのです。ここには、決して挑戦することをやめない全身実験小説家、生涯前衛作家の姿があります。」

 そして著者が提唱するパラフィクション論をふまえて「メタパラの七・五人」や『モナドの領域』を解説する部分は迫力があって引き込まれる。筒井康隆氏自身が「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長篇」とオビに記した『モナドの領域』の読み解きには感心した。

 私自身、膨大な筒井作品の中のどれが最高傑作か、にわかに判断することはできない。記憶鮮明な作品も多いが、よく憶えていない作品もある。『筒井康隆入門』を読みながら遠い記憶がよみがえることもあった。いつか、筒井作品をすべて読み返してみたいとも思った。老後の楽しみである……すでに老後ではあるのだが。

【蛇足】

・P40の『幻想の未来・アフリカの血』の収録作品は間違い。1968年8月発行の南北社版の『幻想の未来・アフリカの血』と1971年8月発行の角川文庫『幻想の未来』を混同しているようだ。

・P41の覆面座談会の件りで、槍玉に挙げられた作家に星新一も入っているが、この座談会で星新一は非難されていない(ほめられている)。

・P45に「晋金太郎」を単行本収録作品でないとしているが、1969年4月発行の『筒井順慶』(講談社)に収録されている。

・P165でBBSの内容を『電脳筒井線』という題名で1冊の本にまとめたとしているが『電脳筒井線』は全3冊。

 重箱のスミをつつく小言幸兵衛だと思う。

最初はキツくて最後が鮮やか --- バルザックの『谷間の百合』2017年10月26日

『谷間の百合』(バルザック/石井晴一訳/新潮文庫)
 タイトルのみは昔から知っているバルザックの『谷間の百合』(石井晴一訳/新潮文庫)を読んだ。

 バルザックは、数年前に読んだ『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』に続いて3つめだ。「人間喜劇」の世界にもう少し接してみたいと思ったのだ。

 読み始めてしばらくは苦痛だった。段落の少ない書簡体の小説で、一人称の過剰な表現の感情吐露と風景描写が延々と続く。この書簡がナタリーという伯爵夫人宛てなのは冒頭の記述でわかるが、筆者のフェリックスとこの夫人の関係が一向にわからない。

 途中で投げ出そうかなと思いつつ読み進め、全540ページの100ページを過ぎたあたりからやっと面白くなってきた。

 ほぼ全編が一つの書簡という体裁の恋愛小説で、そこにはかなり長い年月におよぶあれこれが書き込まれている。毎度のことながら、バルザックの世界とわれわれの世界の恋愛のモラルの違いにはあきれてしまう。過剰な感情にもついていけない。ほとばしる言葉のエネルギーにうんざりさせられもする。にもかかわらず、読者を引き込む魅力はある。

 また、当時の経済のディティールが書き込まれているのも興味深い。領地経営に苦闘する田舎貴族の姿や貴族とブルジョアとの交流に19世紀フランス社会の実相を垣間見た気がする。フランス人のイギリス観やカソリックのプロテスタント観も露呈されていて面白い。物語の背後の「社会」を感得できるのが「人間喜劇」の魅力のひとつだ。

 『谷間の百合』には自己批評的とも言える鮮やかで面白い結末が用意されていて、大いに感心した。いつの日か再読してもいいなと思った。