映画『セザンヌと過ごした時間』はゾラの世界に近い2017年09月03日

 セザンヌとゾラの交友を描いた映画『セザンヌと過ごした時間』を公開初日に観た。セザンヌもゾラも私の好きな作家だ。

 2カ月前にサンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館に行ったとき、思いがけず10点ばかりのセザンヌの絵画に遭遇し感激した。ゾラを初めて読んだのは5年前で、面白いので三大長編(『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』)を続けて読み、さらに『ゾラの生涯』という古いモノクロ映画(1937年のアカデミー賞作品賞)のDVDまで入手して観た。

 私の頭の中ではゾラに近い画家はマネだ。マネが描いたゾラの肖像は印象深いし、マネの絵画にはゾラの作品世界を連想させるものが多い。だから、近日公開映画の紹介記事でゾラとセザンヌが少年時代からの友人だと知り意外に感じた。だが、映画館に行く前に『ゾラの生涯』のDVDを再度観ると、無名時代のゾラとセザンヌの交流がしっかり描かれていた。この映画はドレフィス事件が印象深く、セザンヌの登場は失念していた。いつものことながら、わが記憶力の頼りなさにガッカリした。

 『セザンヌと過ごした時間』のはじめの方で、無名のゾラが無名のセザンヌに向かって「ぼくが小説を書き、君がそれに挿絵を描くんだ」と将来の夢を語るシーンがある。その後、二人ともビッグネームになるのだから、この二人の出会いは奇跡的だ。

 とは言っても、先に名声を獲得するのはゾラであり、セザンヌは晩年に多少評価されるだけで、同時代の人々にはあまり受け容れられなかった。映画ではそんな背景をふまえた二人の葛藤を描いている。晩年には二人は交流を絶ち、映画の最終近くで、セザンヌについて質問されたゾラが「彼は天才です。しかし、その才能は花開かなかった」と語るシーンがある。

 この科白が実話かフィクションかは知らないが、意味深い場面だ。文豪の地位を得たゾラは、結局のところセザンヌの真の価値を見出せなかったようにも取れる。映画では、セザンヌはゾラとの再会を期してその場に来ていたのだが、ゾラの発言を聞いてそっと去って行く。成功者ゾラと落伍者セザンヌのすれ違いにも見え、それは後に逆転する19世紀と20世紀のすれ違いでもある。

 現代から見れば、ゾラもセザンヌも偉大だが、後世への影響力は「近代絵画の父」とも呼ばれるセザンヌの方が圧倒的に大きい……と私は思う。林檎が絵になることを発見しただけでもスゴい。ゾラがそのスゴさをどこまで理解していたかはわからない。おそらくセザンヌは若き日のゾラが夢見たようにゾラの小説の挿絵を描くことはなかったと思える。ゾラの挿絵にはマネの方がふさわしい。

 私がセザンヌとゾラの交友を失念し、その交友を意外に感じたのは、二人の作品世界が異質に見えるからだ。『セザンヌと過ごした時間』はセザンヌが主役だが、セザンヌの世界を描いているわけではなく、むしろゾラの世界を描いた映画である。映画の中で展開される人間ドラマはゾラの作品のようでもあり、美しい風景の中で人々が蠢く映像はマネの絵画に近い。

 と言っても、セザンヌの作品世界を映画化すればどんな映画になるのか見当がつかないし、それが可能かどうかもわからない。

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