ホロコーストを掘り下げた『ブラックアース』は啓蒙の書だ2017年04月04日

『ブラックアース:ホロコーストの歴史と警告(上)(下)』(ティモシー・スナイダー/池田年穂訳/慶應義塾大学出版会)
 米国の歴史家ティモシー・スナイダーの『ブラッドランド:ヒトラーとスターリン大虐殺の真実(上)(下)』を読んだので、その続編的な位置づけの次の本を半ば義理のような気分で読んだ。

 『ブラックアース:ホロコーストの歴史と警告(上)(下)』(ティモシー・スナイダー/池田年穂訳/慶應義塾大学出版会)

 著者は1969年生まれ、原著は2015年9月、翻訳版は2016年7月刊行。比較的若い学者の最近の著作で、従来の観方を更新する新たな見解の本に思える。

 『ブラッドランド』と『ブラックアース』、タイトルも翻訳版の表紙の雰囲気もよく似ている(出版社は異なる)。扱っている時代も地域もほぼ同じだ。前者は、1933年から1945年の間にドイツとソ連に挟まれた地域で発生した約1,400万人にのぼる「大量殺人」の史実を描いている。その1,400万人の内の540万人がホロコーストで殺されたユダヤ人だった。後者はこのホロコーストの内実を描いている。

 ホロコーストの歴史は『ブラッドランド』においてもかなり語られている。ホロコーストについて新たに大部の著作を書くのは材料の二重売りではないか、正直言って読む前にはそんな気もした。続けて読むと多少の重複感があるのは確かだ。しかし『ブラックアース』は『ブラッドランド』とは切り口の異なる本で、著者があえて本書を世に問う動機が了解できた。

 本書はホロコーストの実態とその由縁を丁寧に掘り起こし、21世紀の世界においてもホロコーストに似た事態が発生する可能性を警告している。

 ナチス時代にドイツのユダヤ人がドイツ人に大量に殺されたのがホロコーストではない、というのが本書の一つの指摘だ。殺されたユダヤ人の大半はドイツ以外の地域に在住していた人々であり、ドイツ以外の場所で殺されている。その殺害にはドイツ人以外の多くの人々が関わっている。

 大量殺害を可能にした大きな要因が「国家の破壊」にあるという見解が本書の眼目だ。大規模なホロコーストはナチスやソ連によって国家が破壊された地域で発生している。傀儡政権であってもまがりなりにも国家の形が存続していた地域のユダヤ人の生存率は、国家が破壊された地域の生存率よりかなり高かったそうだ。

 本書には「アウシュヴィッツの逆説」という章がある。アウシュヴィッツだけを観ていてはホロコースト全体を見誤るというのが著者の指摘だ。アウシュヴィッツで殺されたユダヤ人は約100万人で、収容者の生存率は約10パーセントだ。ホロコースト全体で540万人が殺されている。アウシュヴィッツはホロコースト後期の一部を担っているに過ぎず、アウシュヴィッツ以前にすでに大量のユダヤ人が殺害されていた。

 アウシュヴィッツのガス室という秘密めいた場所にホロコーストを押し込めると「そんなことになっているとは知らなかった」という主張の裏付けになる。だが、ガス室以前に大量のユダヤ人が銃殺されており、多くの一般の人々がそれを感知していたらしい。アウシュヴィッツだけに注目すると、国家の破壊による無法地域の発生というホロコーストの前提条件が観えにくくなるとも著者は指摘している。

 生存率10パーセントをどう観るかも微妙だ。著者は次のように述べている。

 「アウシュヴィッツに送られるとされていたドイツ支配下のユダヤ人の方が、アウシュヴィッツに送られるとされていなかったドイツ支配下のユダヤ人たちより生き延びる可能性が高かった。これが「アウシュヴィッツの逆説」であるし、国家がどのように破壊されたか、ないし破壊されなかったかを考慮して、はじめてその逆説を解明できる。」

 啓蒙的で興味深い見解である。

美輪明弘、演出・美術・主演の『近代能楽集』を観劇2017年04月05日

 初台の新国立劇場中劇場で三島由紀夫の『葵上・卒塔婆小町』(『近代能楽集』より)を観た。演出・美術・主演は美輪明弘だ。

 戯曲集『近代能楽集』を読んだのは約半世紀前の大学生時代だ。当時すでに新劇の魅力は色あせ、紅テントや黒テントなどのアングラに魅かれていた。そんな時代だったが、『近代能楽集』収録の8編の一幕劇は超現実的な秀逸な現代的戯曲に思えた。あの頃、私たちの同時代文学は安部公房、大江健三郎、三島由紀夫に代表されているという感覚があった。

 半世紀が経過し『近代能楽集』の内容は忘却の彼方にある。何篇かは舞台でも観ているが記憶は朧だ。しかし、戯曲や舞台から受けた摩訶不思議な印象だけは残っている。

 私は芝居を観る前には戯曲を目に通すことが多い。役者たちが舞台に立ち上げる時空間を堪能するのが観劇の醍醐味であり、筋の展開を追うのは二の次だから戯曲を読んでいても観劇の興をそぐことはないと思うからだ。

 だが、今回の『葵上・卒塔婆小町』では失念している戯曲を再読せずに観劇した。観劇の過程で記憶のよみがえりを楽しむというワクワク体験を期待したのだ。

 美輪明弘は主演・演出だけでなく美術も担当している。ダリをモチーフにした『葵上』の舞台も新宿の都庁舎を遠景にした『卒塔婆小町』の舞台も異世界的で十分に魅力的だった。そして、この舞台で展開される三島由紀夫の世界に昭和レトロを感じてしまった。

 半世紀前に同時代的だと共感していた世界に昭和レトロを感じる自分自身に少し驚いた。三島由紀夫がすでに古びてしまったのか、私が年老いてしまったのかはよくわからない。

 この芝居で「俗悪」という単語が何度か出てくるのも気になった。この単語に久々に触れた気がした。現実世界を唾棄する言葉として「俗悪」が使われているようでありながら、演劇空間は「俗悪」を彼方に夢想しているようにも思える。

 「俗悪」という単語にこんな反応をするのは、この世が俗悪から遥かに遠ざかってしまったのか、あるいは俗悪の中に埋没してしまったのか、それもよくわからない。

ミュシャの巨大連作『スラヴ叙事詩』の前に立ちすくんで…2017年04月07日

 国立新美術館で開催中の『ミュシャ展』に行った。ミュシャと言えばあのシャレた装飾的なポスターを想起する。私もミュシャのポスターは好きだ。

 だが『ミュシャ展』のメインは華麗なポスターではなく『スラヴ叙事詩』と題する20点の巨大絵画だ。パリでポスター画家として成功したミュシャが祖国チェコに戻ってこんな絵画を制作していたとは、今回の『ミュシャ展』の報道に接するまでは知らなかった。

 フライヤーで紹介されている『原故郷スラヴ民族』をはじめとする20点の大きさに圧倒された。『原故郷スラヴ民族』は610×810cm、他の作品も似たようなサイズだ。これだけ大きいと会場が多少混雑していても鑑賞にさほどの支障がないのが有難い。

 この巨大絵画をチェコからどうやって運んで来たのか気になった。610×810cmの板を船に載せるのは可能かもしれないが、都会の道路をトラックで運搬できるとは思えない。帰宅後ネットで調べて、絵画をクルクル巻いて運んだと判明した。痛まないのか心配だが、専門家の仕事だから大丈夫なのだろう。

 『ミュシャ展』で感激したのは、一部ではあるが写真撮影が可能になっていることだ。海外の美術館では写真撮影OKの所があるが、日本では珍しいと思う。なぜ全部ではなく一部なのだろうと思った。混雑時の写真撮影が鑑賞の妨げになるかの実験的試みかもしれない。

 それはさておき『スラヴ叙事詩』という連作を眺めながら、スラヴ民族とは何だろうという基本的な疑問がわいた。ヨーロッパにはラテン民族、ゲルマン民族、スラヴ民族がいると習ったのは中学生の頃だが、歴史を学ぶにつれてそんなに単純ではなさそうな気がしてきた。ヨーロッパに住む人々の〇△民族、□◇人というアイデンティティは複雑すぎて理解不能だ。

 最近読んだティモシー・スナイダーの『ブラッドランド』『ブラックアース』もヨーロッパの国民国家、民族自決を背景にした歴史書で、人種や民族とは何かを考えざるを得ない内容だった。

 私自身の中に日本人という意識があるのは確かだが、島国育ちのせいか、ことさらに人種・民族を意識せずに生きてきた。そんな呑気な人間だから、ミュシャが巨大絵画群にぶつけたスラヴ人意識とは何であったか、孤高なのか連帯なのか反発なのか郷愁なのかイマイチ理解できない。

那覇市の映画館で『アラビアの女王』を観た2017年04月15日

 今週前半は沖縄・那覇市で過ごした。県庁前の「パレットくもじ」9階の映画館「シネマパレット」で『アラビアの女王』を上映中だった。東京で見逃した映画だ。

 『アラビアのロレンス』の女性版で、実話に基づいた「イラク建国の母」の物語と聞いていたので、欧州・中東の近代史の勉強になりそうで興味があった。その映画を那覇で観ることができた。期待したような歴史物語ではなく恋愛映画に近い作りではあったが、20世紀中東史への関心を喚起する話だった。

 この映画の主人公は、アラビアのロレンスより20歳年長の英国の貴婦人・ガートルード・ベルである。私はこの映画で初めてアラビアで活躍したこの女性のことを知った。

 映画は史実をベースにしたフィクションだが、砂漠のシーンに魅了された。砂漠と言えば『アラビアのロレンス』と『眼には眼を』が印象深いが、そんな過去の映画を彷彿とさせる砂漠の映像だ。

 主演はニコール・キッドマンで、美しき女親分が従者を引き連れて砂漠の部族を歴訪する話だ。その歴訪を観ていると往年のテレビ番組「兼高かおる世界の旅」を連想し、ガートルード・ベルが兼高かおるに重なって見えてきた。

 また、「西のかた陽関を出ずれば故人なからん」という漢詩や「蒙古放浪の唄」などが醸し出す大時代的砂漠ロマンの世界も想起され、砂漠へと旅立つシーンにうっとりした。

 と言っても、この映画の歴史的な背景にはサイクス=ピコ協定などイギリスの二枚舌、三枚舌外交がある。砂漠を旅行く駱駝の隊列にロマンを感じても、この映画に登場するイギリス人たちの活躍に素直に納得するわけにはいかない。『アラビアの女王』はあえてそんな葛藤を避けた内容になっているのだが…

 沖縄の地でこの映画を観ていると、20世紀の中東と21世紀の沖縄に通底するものがあるように思えてきた。

チェーホフとシェイクスピア---文豪の2本立て公演2017年04月16日

 明治座で東京乾電池のチェーホフとシェイクスピアの2本立て公演を観た。明治座と東京乾電池という取り合わせが異種格闘技風だ。チェーホフとシェイクスピアという組み合わせは盤石の文豪タッグで世界文学全集の1巻のようである。4月15日の1日だけの特別企画だそうだ。

 第一部はチェーホフの『煙草の害について』で柄本明の一人芝居、第二部はシェイクスピアの『夏の夜の夢』だ。観劇の前に戯曲に目を通した。『夏の夜の夢』は手元の世界文学全集に福田恆存訳が収録されていた。『煙草の害について』は『ちくま文学の森(6) 思いがけない話』に米川正夫訳で収録されていた。どちらも肩の凝らない軽喜劇で、文豪と称される作家もこういうものを書いていたのかと思うとホッとする。

 舞台は第一部の方が第二部より面白かった。第一部『煙草の害について』は戯曲で8頁の短い一人芝居だが、柄本明はこれに独自のギャグを盛り込んで1時間で演じた。上手いものだと思った。

 公演のチラシによれば、『煙草の害について』は「作・チェーホフ、演出・構成・柄本明」となっている。『夏の夜の夢』は「作・シェイクスピア、訳・福田恆存、演出・柄本明」と訳者を明記しているのに『煙草の害について』には訳者が載っていない。柄本明がかなり自由に脚色したからだろう。その分、面白さが倍加している。

 第二部『夏の夜の夢』は一応は福田恆存訳の戯曲の科白を役者たちがそのまましゃべっているのだが、いろいろな工夫が盛り込まれていた。

 『夏の夜の夢』は他愛もないコメディで、祭りの演し物のような目出度い芝居ではあるが16世紀の芝居だ。現代の日本人が当時の英国人の感性で舞台を楽しむのは容易でない。シェイクスピアという名前にひれ伏して教養主義的に古典鑑賞の気分で観劇するのではつまらない。

 柄本明演出は福田恆存訳の戯曲をできる限り楽しく猥雑に演じようとしている。科白にはルー大柴的なジャパニーズ・イングリッシュが入り、昭和歌謡曲を盛り込み、衣装はデタラメだ。柄本明演ずる妖精の王はステテコ、ダボシャツ姿でマントは唐草模様の風呂敷である。古典ではなく笑劇として演じようとする工夫だろう。

 何百年も昔の芝居に当時の人が感じたであろう面白さを現代の観客に追体験させるのは容易でない----『夏の夜の夢』を観劇しながらそんなことを感じた。

安部公房の『城塞』が半世紀を経て復活2017年04月22日

 今月初旬、新国立劇場中劇場で『葵上・卒塔婆小町』(作:三島由紀夫、演出・美術・主演:美輪明弘)を観たとき、劇場入口付近に『城塞』と大きな文字で印字された看板があった。近日上演の芝居の案内だと分かったが、私には馴染みのない知らない芝居だと思った。その看板を遠目に眺めながら私は次のようなことを考えていた。

 「そういえば、ずいぶん昔に安部公房も『城塞』という戯曲を書いていたなあ。あれと同名の芝居だ。ありふれたタイトルなんだ。」

 看板の前をさほどの興味もなく通り過ぎるとき、ちらりと「作 安部公房」という文字が飛び込んできた。びっくりした。それはまさに安部公房の『城塞』だったのだ。

 私は半世紀近く昔の学生時代には安部公房ファンだったので、彼の小説や戯曲はほぼすべて読んでいる。かつてはヒーローに見えた安部公房も没後20年以上が経過し、忘れられた存在になりつつあると感じている。三島由紀夫や井上ひさしの芝居が没後も継続的に上演されているのに対し、安部公房の芝居が上演されるという話は聞かない。

 そう思っていたので、安部公房の数ある戯曲の中でもあまり知名度のない『城塞』が新国立劇場で上演されるという事態は想像もできなかったのだ。

 さっそく劇場窓口でチケットを手配し、本日(4月22日)、『城塞』(作:安部公房、演出:上村聡史、主催:新国立劇場)を新国立劇場小劇場で観た。

 今回知ったのだが、『城塞』をはじめ安部公房のいくつかの芝居が昨年俳優座で上演されたそうだ。安部公房の芝居が最近は上演されていないというのは私の思い過ごしだろうか。

 『城塞』の初演は1962年、私は地方在住(岡山県玉野市)の中学2年生で、安部公房という作家の名も知らなかった頃だ。戯曲は『文藝 1962年11月号』に掲載されている。私は60年代末にこの雑誌を古書店で探索入手して『城塞』を読んだ。その後、1970年1月発行の『安部公房戯曲全集』(新潮社)にこの戯曲は収録された(「全集」と銘打ったこの単行本は全戯曲を収録しているのではなく、収録されていないアジプロ戯曲もある)。

 戯曲を読んだのは半世紀近く前なので、かすかな印象が残っているだけだ。観劇に先立って戯曲を再読し、『安部公房全集 016 1962.04-1962.11』に収録されている『城塞』に関する安部公房のいくつかのコメントにも目を通した。その抜粋は以下の通りだ。

 「ナンセンス・コメディは、いつの間にやら、深刻きわまる重量級ドラマに変わってしまっていた」
 「この作品もまた、その本質は、同じ喜劇なのだということである」
 「あるブルジョアジーをブルジョアジーとして確立するプロセスを内的に捉えて、それがやはり民族とか国家というものを内的に超えることでブルジョアジーとして確立してくという点を、明瞭に出したかった」
 「階級制をくもらせる、霧のようなイデオロギー、民族だとか、祖国だとかいう、あの危険な思想と対決してみたいというのが、こんどの作品の中心テーマだったのです」

 このように作者のコメント羅列してみると1962年頃の左翼的な気張りがむんむんとしてきて、時代の香りがする。満州で財を成し戦後も軍需で事業を拡大させた資本家の家庭を舞台にした芝居である。劇中で二回出てくる次の科白も印象深い。

 「戦争で負けたくらいで、国が死んだりするものか……国家を殺すことができるのは、革命だけさ」

 と言っても『城塞』は図式的な資本家糾弾プロパガンダ劇ではなく、歴史という現実を紡ぎあげていく人間の姿を演劇的かつ普遍的に描いている。だからこそ、21世紀の現代に若い演出家によって再演されることになったのだろう。

 安部公房の戯曲が再演されることを、その作品が古典に近づいたと寿ぐこともできるかもしれないが、時代のうねりが回帰しているのではないかとも感じられる。それは決して目出度いことではない。

 今回の舞台の美術にはいろいろ工夫があった。最後のシーンで東京タワーを遠望する窓からの俯瞰が、拡大していく日の丸に変容していくさまはクライマックスの効果を盛り上げて効果的だった。現代へのメッセージを感じた。