空疎で空虚な首相に暗然とする『安倍三代』2017年03月25日

『安倍三代』(青木理/朝日新聞出版)
 3月23日の森友学園・籠池理事長の証人喚問は、平日の昼間にもかかわらず多くの人がテレビの国会中継を観たようだ。朝日新聞には「今日だけは惜しくなかった受信料」という川柳が載っていた。

 私はこのテレビ中継を観ていない。11時から21時前まで歌舞伎座の昼の部と夜の部を連続で観劇していた。仁左衛門の「大物浦」、海老蔵の「助六」などが目当てでそれなりに満足したが、籠池劇場のテレビ中継を見損ねたのは少々残念だ。

 と言っても、今回の森友学園問題にはハラハラ・ワクワクするスケール感がない。役者も事件もチャチに見える。かなりいいかげんな人物が経営する学園に首相夫妻が共感を表明し、そのことを忖度した財務官僚や大阪府が一丸となって小学校設立支援に動いた。しかし、国有地払下げ価格や学園経営者のいかがわしさが指摘され始めると、支援者たちが蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。そこに違法性があるか否かはわからないが、小さな人物たちのコメディであって巨悪の物語には見えない。

 そんな索漠とした思いを喚起させるのが、安倍晋三首相のルーツを描いた次の本だ。

 『安倍三代』(青木理/朝日新聞出版)

 安倍三代とは、安倍晋三、父の安倍晋太郎、祖父の安倍寛の三人であり、「第1部:寛、第2部:晋太郎、第3部:晋三」という構成になっている。安倍晋三と言えば母方の祖父・岸信介が有名だが、本書の「三代」に岸信介は含まれていない。それがミソだとも言える。

 私の世代(1948年生まれ)にとって安倍晋太郎は馴染み深い政治家だが、本書を読むまで安倍寛は知らなかった。1937年からの衆議院議員で、反戦・反東条の非翼賛会議員だったそうだ。地元(山口県日置村)で非常に敬愛され人望を集めた人物だったが、病弱で終戦後の1946年に早世している。
 
 安倍晋太郎は常々「オレは岸信介の女婿じゃない。安倍寛の息子なんだ」と語っていたそうだ。だが、安倍晋三が父方の祖父・安倍寛を語ることは少なく、岸信介の孫という意識が強い。安倍晋三が生まれた時、すでに安倍寛は他界していたのに対し、岸信介はあの1960年安保の頃から幼児の晋三を可愛がっていたのだから、必然的にそうなったのだろう。

 本書で私が一番面白く読めたのは「第2部:晋太郎」だ。新聞記者出身のこの政治家については通り一遍のことしか知らなかったが、本書でその生い立ちや内面に触れ、いろいろな屈折を抱えた興味深い人物に思えてきた。総理を目前に早世したのが惜しまれる政治家だったようだ。

 それに比べて三代目は・・・というのが本書の眼目だ。「売り家と唐様で書く三代目」とは多少異なるが、起業家的な一代目から三代を経ると人物も精神も劣化・空疎化し薄っぺらになり、無知と無恥がはびこるようだ。北朝鮮の金王朝とわが総理を比較するのは失礼の極みだろうが、似たような三代目の不気味さを感じる。

 本書の「第3部:晋三」は面白いというより、むしろ不気味だ。著者の青木理氏の次の述懐が印象深い。

 「悲しいまでに凡庸で、何の変哲もない。(…)正直言って「ノンフィクションの華」とされる人物評伝にふさわしい取材対象、題材ではまったくなかった。/しかし、それが同時に不気味さを感じさせもする。なぜこのような人物が為政者として政治の頂点に君臨し、戦後営々と積み重ねてきた“この国のかたち”を変えようとしているのか。これほど空疎で空虚な男が宰相となっている背景には、戦後70年を経たこの国の政治システムに大きな欠陥があるからではないのか。」

 薄っぺらい首相とスピリチャル・オカルトの首相夫人を巡る安手の籠池劇場を観劇するよりは、仁左衛門や海老蔵の大芝居を観ている方が楽しい・・・と言いたいが、そうもいかないだろう。

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