近松門左衛門に後ろめたさを感じつつ文楽を観た2017年02月08日

  昨日、国立劇場で文楽公演『近松名作集』を観た。午前11時開演で終演は午後7時52分、約9時間の長丁場だった。この公演、3部に分かれていてチケットは別々だから続けて全部観る必要はない。だが、思い切って同じ日のチケットを3枚購入した。3本とも観たい演目であり、自分が9時間の観劇に耐えられるか体力試し気分で購入したのだ。

 そして、昼食も夕食も劇場売店で買った弁当をロビーで食すという1日を過ごした。意気込んだほどにキツくはなく、腰も痛くならなかった。傍から見ればたいしたことではなかろうが、私はささやかな達成感を得た。

 文楽を観るのは昨年末の『仮名手本忠臣蔵』に続いて2回目に過ぎないが、退屈することなく堪能でき、今やいっぱしの人形浄瑠璃ファンになった気分だ。

 演目は近松門左衛門の『平家女護島』『曾根崎心中』『冥途の飛脚』の3本、どれもタイトルを知っているだけの演目だ。かねがね、近松門左衛門には後ろめたさを感じている。日本のシェイクスピアと言われるほどに高名な劇作家で、子供の頃から名前は知っているのに、その作品をほとんど読んでいない、いや読めていないからだ。近松門左衛門より昔のシェイクスピアの戯曲は翻訳のおかげでいくつも読んでいるのに、日本のシェイクスピアの作品を読むことができない。おかしなことだが仕方がない。

 ずいぶん昔、野田秀樹の『野田版国性爺合戦』という芝居を観たとき、原作も読もうと『新潮日本古典集成/近松門左衛門集』を購入した。5本の浄瑠璃が収録されていて、近世の古文なら何とかなると思ったが、読み通すのが苦痛で途中で投げてしまった。そんなこともあり、近松門左衛門には申し訳ない気持ちがある。

 ということで、人形浄瑠璃の『近松名作集』を観劇して近松門左衛門に再びアプローチしようと思った。観劇に先だって『名作歌舞伎全集第1巻』収録の『平家女護島』『曾根崎心中』『恋飛脚大和往来(冥途の飛脚)』を読んだ。歌舞伎台本は浄瑠璃とは異なる部分もあり、浄瑠璃よりは読みやすい。だが、どの台本もいまひとつピンと来なかった。面白さのポイントがつかめなかったのだ。

 そして、人形浄瑠璃の実演を観て、やっと面白さがわかった。やはり、舞台を観なけらば芝居はわからない。台本だけで舞台を想像するのは簡単ではない。3本の中では『曾根崎心中』がいちばん迫力がある。あざとさも感じるが、元禄の世に大ヒットしたのが納得できた。

 今回上演の『曾根崎心中』のラストの語りは以下の通りだ。

 「南無阿弥陀仏を迎へにて、あはれこの世の暇乞ひ。長き夢路を曾根崎の、森の雫と散りにけり」

 これが『名作歌舞伎全集第1巻』では次のように変わっている。

 「誰が告ぐるとは曾根崎の森の下風音に聞え、とり伝へ貴賤群衆の回向の種、未来成仏疑ひなき、恋の手本となりにけり」

 歌舞伎になるときに変わったのだろうと思った。だが『新潮日本古典集成/近松門左衛門集』収録の浄瑠璃は歌舞伎台本と同じだった。ちょっと不思議だ。

 いずれにしても、これを機に『新潮日本古典集成/近松門左衛門集』の名文に再チャレンジしようかという気になった。

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