迷路の街で不条理劇を観る2017年01月20日

 東京乾電池の『やってきたゴドー』(作・別役実、演出・柄本明)を下北沢の「駅前劇場」という小さな劇場で観た。遠い昔、下北沢を象徴する本多劇場には柿落しに行ったし、周辺の小劇場にも行ったことがあるが「駅前劇場」は初めてだ。

 井の頭線と小田急線が交差して狭い通路が縦横に走る下北沢駅周辺は迷いやすい。久々に下北沢に行くと、駅周辺は工事中のフェンスだらけで、迷いやすい町並みがいっそう複雑な迷路になっていた。

 「駅前劇場」は文字通り駅前にあり、迷いようがない。にも関わらず、そこに辿り着くのにずいぶんウロウロしてしまった。北口→西口→北口→南口とさまよったのだ(南口を西口と混同したのが敗因)。加齢でボケているせいもあるが、知っているはずの通路が工事で通行止めで大きな迂回路になっていたりして面食らった。

 不条理劇を演ずる劇場に入るまでにすでに不条理を体験をしてしまったのである。そして、劇場に入ると不条理の予感とでも言うべき懐かしさを感じた。小劇場の舞台に緞帳はなく、開演前から舞台装置が観客の前に晒されているからだ。舞台には古びたバス停の標識とベンチ、そして電信柱があるだけで、電信柱には団地妻の卑猥なビラがベタベタ貼られている。別役実らしい不思議世界の懐かしい雰囲気だ。

 今回の東京乾電池の公演はベケットの『ゴドーを待ちながら』と別役実の『やってきたゴドー』との連続公演で、両方とも観たいと思ったが、前者はチケットが取れなかった。

 ノーベル文学賞を受賞したベケットの『ゴドーを待ちながら』は「20世紀の民話」とも言える不条理劇の「古典」だ。二人の浮浪者がゴドーという人物を待っているだけの、何ともシンプルな話だ。私は学生時代に戯曲を読み舞台写真を観ただけで、実際の上演を観たことはない。

 今回、『やってきたゴドー』を観る前にベケットの『ゴドーを待ちながら』をほぼ半世紀ぶりに再読した。そして、1953年に初演されたこの芝居が、1960年代後半の唐十郎らのアングラ芝居に影響をおよぼし、私自身が無自覚にもその影響を受けていることにあらためて気付いた。やはり「20世紀の民話」だ。

 で、別役実の『やってきたゴドー』は如何なる舞台だったか。ゴドーを待つ二人の浮浪者エストラゴン、ウラジミールを始めベケットの芝居の5人の登場人物全員が登場し、モトネタと似た演技をくり返す状況にバス停前の新たな世界が重なり、新たに4人の女とゴドー自身が登場する。ベケットの空間とバス停と電信柱の懐かしき世界が地続きになった世界で、もうひとつの不条理劇が展開される。

 ゴドーがイエス・キリストに似た浮浪者の姿で登場するのが、面白くもあり正当的でもある。ドストエフスキイの大審問官のような重さがないのが20世紀だ。

 「ゴドーです」
 「エストラゴンです」
 「ウラジーミルです」

 この会話の後、ゴドーは無視される。

 この無視が新たな不条理であり別役劇の眼目だ。それがベケット劇の不条理を乗り越えたのか、不条理が深化したのか、単に多様性を提示しているのか、あるいはベケット劇をくり返しているだけなのか、いろいろな見方ができる。「20世紀の民話」の延長なのは確かだ。

 21世紀には「20世紀の民話」とはまったく異なる新たな民話が生まれるのだろうか。