年末年始に読んだ沖縄本2冊の落差2017年01月07日

『沖縄学:ウチナーンチュ丸裸』(仲村清司/新潮文庫)、『消えゆく沖縄:移住生活20年の光と影』(仲村清司/光文社新書)
 この数年、年末年始は沖縄の那覇市で過ごしている。年末(先月末)、牧志公設市場隣りの小さな古本屋「ウララ」で次の本を買って読んだ。

 『沖縄学:ウチナーンチュ丸裸』(仲村清司/新潮文庫)

 年初には沖縄県庁向かいの百貨店「リウボウ」7階の書店「リブロ」で次の本を買って読んだ。

 『消えゆく沖縄:移住生活20年の光と影』(仲村清司/光文社新書)

 同じ著者の本だが読後の気分はかなり異なる。前者では沖縄のユルイ雰囲気に浸れるが、後者を読むと暗澹としてくる。

 『沖縄学』は2006年発行の文庫本で、その元の単行本は2004年に出ている。『消えゆく沖縄』は2016年11月発行の新書本だ。二つの本の間には約12年の年月が流れていて、その間に沖縄は変貌し著者の心情も変わってきたようだ。

 仲村清司氏は1958年大阪生まれ(私より10歳若い)のウチナーンチュ2世。沖縄出身の両親が子どもにその出自を秘匿していたため、出身地が沖縄であることを知ったのは小学校高学年になってからだそうだ。その件りをユーモラスに語っている部分は面白いが、私より10歳若い世代でも沖縄出身が差別の対象になる恐れがあったことを知り驚いた。

 仲村氏は1996年に那覇市に移住し、沖縄に関する本を多く書いていて「沖縄ブーム」の火付け役の一人とも言われている。私もこの二冊以外にも仲村氏が関わった数冊を読んだことがあり、諧謔的な軽い語り口に魅力を感じていた。

 『沖縄学』は、その軽くはあるがウンチク深く思索的でもある文章で綴られている。沖縄社会の「テーゲー(おおまか)主義」や「ナンクルナイサ(なんとかなる)」の分析も見事で面白い。

 だが、那覇移住20年目に書かれた『消えゆく沖縄』は沈鬱で重い。著者の持論は「沖縄を表層で語ると叱られるし、深入りしすぎると火傷する」だそうだ。本書が火傷の本か火傷一歩手前の本かはわからないが、現在の沖縄がかかえる問題点を提示している。

 その問題点とは「乱開発」「環境破壊」「共同体の破壊」「信仰の形骸化」などであり、その多くは沖縄人が自らまねいたものだとしている。

 かつて琉球王国だった沖縄は日本の中ではかなり特殊な郷土愛の強い地域であり、多くの魅力がある。しかし、重い課題もたくさん抱えている。

 仲村氏の本を読んで、部外者である私も沖縄についてもっと考えねばという気持ちになった。清水義範が『蕎麦ときしめん』で提示した「日本の名古屋は世界の日本」という至言を想起し、「日本の沖縄は世界の日本」という気分になり、沖縄の現状を考えることはわれわれの未来を考えることだと思えてきたのだ。

『高橋是清自伝』で浩然の気を養う2017年01月15日

『高橋是清自伝(上)(下)/高橋是清・上塚司編/中公文庫』
◎ショーペンハウアーに導かれて…

 年初の読書には自伝がふさわしい。そんな気分になって『高橋是清自伝(上)(下)/高橋是清・上塚司編/中公文庫』を読んだ。自伝を読みたくなったのは、年末にたまたまショーペンハウアーの次の言葉に接したからでもある。

 「人間の本質を認識するという点から見れば、伝記、ことに自伝が、歴史書よりも大きな価値がある」

 ショーペンハウアーの真意を理解したわけではないが、自分の生涯を振り返って総括する自伝には、人間の本質につながるさまざまな事柄が反映されているということのようだ。

 なぜ『高橋是清自伝』か。年末に孫の『週刊マンガ日本史93号 高橋是清』という薄いマンガ冊子に目を通し、以前に購入したまま未読の『高橋是清自伝』を想起したからである。

◎人生は前半の方が面白い

 自伝はその人の一生の記録にはなり得ない。功成り名遂げた人が晩年に著わしたとしても、生涯の記録ではなく半生記に近いものも多い。

 『高橋是清自伝』は是清の晩年の口述を上塚司氏(大蔵大臣秘書官だった人)が筆記したもので、冒頭の「序」は是清自身が書いている。その日付は何と昭和11年1月だ。是清が二二六事件で殺害される前月である。ということは、ほぼ全生涯にわたる記録かと思った。残念ながらそうではなく、52歳で終わっていた。

 82歳で殺害された是清の後半生30年は語られていない。しかし、前半生だけで充分に面白い。この自伝にない52歳以降の後半30年で是清は日銀総裁になり、大蔵大臣になり、総理大臣になり、その後も何度も大蔵大臣に就任する。最晩年まで要職を歴任した後半生ではあるが、人生の面白さは前半が後半を凌駕しているように思える。

 振り返れば後半より前半の方が面白い、というのは大多数の人の人生にあてはまることだと思う。成長曲線の前半と後半を比べれば前半の曲線の方が物語として面白くなるのは当然だ。

◎あきれた楽天家

 是清の前半生は波瀾万丈であり、子供時代を語った冒頭部分の次の記述が是清の人生全体の雰囲気を表している。

 「そういうわけで私は子供の時から、自分は幸福者だ、運のいい者だということを深く思い込んでおった。それでどんな失敗をしても、窮地に陥っても、自分にはいつかよい運が転換してくるものだと、一心になって努力した。今になって思えば、それが私を生来の楽天家たらしめたる原因じゃないかと思う。」

 仙台藩の足軽の養子が勉学のため13歳で渡米するも、仲介人に騙されて奴隷として売られる。この有名なエピソードは以前から知っていて、苦労した人だと思っていた。しかし、本書を読むと奴隷時代の話にもさほど悲惨さは感じられず、むしろナマイキで勝手気ままに威張っている少年の姿が浮かんでくる。

 若い頃から酒や芸妓にうつつをぬかし、反省と放蕩をくり返す姿にはあきれてしまう。それでも何となったのは、利発で愛嬌があったからだろう。せっかく手に入れた職を簡単に手放してしまうのは、楽天家であると同時に信念を重んじたからだと思われる。

 上巻最後の「ペルー銀山の失敗とその後の落魄時代」という章は特に面白い。銀山の失敗は自分のせいではないという弁明は、当時の是清への風当たりの強さも感じられ納得できる。だが、その後も銀山の失敗を補填しようと鉱山に手を出してまた失敗するのにはあきれる。果敢な楽天家というしかない。

◎歴史を実感できる

 この自伝の後半は日露戦争の戦費調達のためにロンドンやニューヨークでの外債募集に奔走する話だ。あの時代に何度も渡航して活躍する姿に、あらためて明治の人の気概と意気の高さを感じた。

 日清戦争から日露戦争に到る経緯や日露戦争の講和に反発した暴動などは歴史教科書で一応知ってはいるが、この自伝で同時代の人の体験記として読むと、時代の雰囲気に触れて歴史の事象を実感した気分になり、歴史への理解が深まった気がしてくる。これは自伝を読む効用のひとつだろう。
 
 また、是清の生涯からは逸れるが、この自伝を読んで、幕末から明治にかけて海外に渡航した人々が学徒や要人だけでなく、芸人たちもすでに幕末から海外に雄飛していたことをあらためて確認できた。往時の日本人の活力に敬服する。

『初春大歌舞伎』を観た2017年01月18日

 歌舞伎座の『初春大歌舞伎』を昼の部も夜の部も観た。1月公演を観るのは初めてである。正月らしい趣向があるかと思っていたがことさらの正月らしさは感じなかった。

 昼夜とも片岡愛之助がほぼ出ずっぱりの活躍だった。六つの演し物の四つ(『将軍江戸を去る』『大津絵道成寺』『井伊大老』『松浦の太鼓』)に出演している。

 私には最後の『松浦の太鼓』がいちばん面白かった。忠臣蔵の外伝で、討入りの夜の吉良邸の隣家の殿様の屋敷での話だ。討入りを待ちわびる殿様(市川染五郎)の様子をコミカルに描いた舞台で、愛之助は大高源吾を演じている。

 この愛之助を観ていて片岡仁左衛門に似ているなあと感じた。テレビドラマ『半沢直樹』ではそんな感じは抱かなかったが、歌舞伎の舞台になると様子がガラリと変わるものだ。仁左衛門は愛之助の義父の弟なので縁はあるが、部屋子出身なので血はつながっていない。にもかかわらず仁左衛門を彷彿とさせるのが不思議であり、面白くもある。

 午前の部の最後は中村吉右衛門主演の『沼津』で、『伊賀道中双六』の中の一場面だ。私は以前に『伊賀道中双六』を通しで観ていて戯曲も読んでいるので、話の筋はわかってはいた。だが『沼津』という場面はかなり変である。コミカルな前半と深刻な後半とのギャップが大きい。

 芝居が終わった後、前の席にいた中年男性が連れに対して「何が何だか全然わからん」と不満そうにつぶやいていた。舞台は好色そうな旅の商人と人の良さそう貧しい老雲助のコミカルな掛け合いで始まる。中盤まではユーモラスでわかりやすい。その舞台がいつの間にやら老雲助の切腹にまで展開していくのだから、背景の事情を把握していない初見の人は面くらうだろう。予備知識なしに、この『沼津』だけの舞台進行を観ると私も「わけがわからん」とつぶやいたと思う。

 歌舞伎を楽しむには、わけのわからない強引で無理な展開が歌舞伎の面白さだと認識しなければならない。

迷路の街で不条理劇を観る2017年01月20日

 東京乾電池の『やってきたゴドー』(作・別役実、演出・柄本明)を下北沢の「駅前劇場」という小さな劇場で観た。遠い昔、下北沢を象徴する本多劇場には柿落しに行ったし、周辺の小劇場にも行ったことがあるが「駅前劇場」は初めてだ。

 井の頭線と小田急線が交差して狭い通路が縦横に走る下北沢駅周辺は迷いやすい。久々に下北沢に行くと、駅周辺は工事中のフェンスだらけで、迷いやすい町並みがいっそう複雑な迷路になっていた。

 「駅前劇場」は文字通り駅前にあり、迷いようがない。にも関わらず、そこに辿り着くのにずいぶんウロウロしてしまった。北口→西口→北口→南口とさまよったのだ(南口を西口と混同したのが敗因)。加齢でボケているせいもあるが、知っているはずの通路が工事で通行止めで大きな迂回路になっていたりして面食らった。

 不条理劇を演ずる劇場に入るまでにすでに不条理を体験をしてしまったのである。そして、劇場に入ると不条理の予感とでも言うべき懐かしさを感じた。小劇場の舞台に緞帳はなく、開演前から舞台装置が観客の前に晒されているからだ。舞台には古びたバス停の標識とベンチ、そして電信柱があるだけで、電信柱には団地妻の卑猥なビラがベタベタ貼られている。別役実らしい不思議世界の懐かしい雰囲気だ。

 今回の東京乾電池の公演はベケットの『ゴドーを待ちながら』と別役実の『やってきたゴドー』との連続公演で、両方とも観たいと思ったが、前者はチケットが取れなかった。

 ノーベル文学賞を受賞したベケットの『ゴドーを待ちながら』は「20世紀の民話」とも言える不条理劇の「古典」だ。二人の浮浪者がゴドーという人物を待っているだけの、何ともシンプルな話だ。私は学生時代に戯曲を読み舞台写真を観ただけで、実際の上演を観たことはない。

 今回、『やってきたゴドー』を観る前にベケットの『ゴドーを待ちながら』をほぼ半世紀ぶりに再読した。そして、1953年に初演されたこの芝居が、1960年代後半の唐十郎らのアングラ芝居に影響をおよぼし、私自身が無自覚にもその影響を受けていることにあらためて気付いた。やはり「20世紀の民話」だ。

 で、別役実の『やってきたゴドー』は如何なる舞台だったか。ゴドーを待つ二人の浮浪者エストラゴン、ウラジミールを始めベケットの芝居の5人の登場人物全員が登場し、モトネタと似た演技をくり返す状況にバス停前の新たな世界が重なり、新たに4人の女とゴドー自身が登場する。ベケットの空間とバス停と電信柱の懐かしき世界が地続きになった世界で、もうひとつの不条理劇が展開される。

 ゴドーがイエス・キリストに似た浮浪者の姿で登場するのが、面白くもあり正当的でもある。ドストエフスキイの大審問官のような重さがないのが20世紀だ。

 「ゴドーです」
 「エストラゴンです」
 「ウラジーミルです」

 この会話の後、ゴドーは無視される。

 この無視が新たな不条理であり別役劇の眼目だ。それがベケット劇の不条理を乗り越えたのか、不条理が深化したのか、単に多様性を提示しているのか、あるいはベケット劇をくり返しているだけなのか、いろいろな見方ができる。「20世紀の民話」の延長なのは確かだ。

 21世紀には「20世紀の民話」とはまったく異なる新たな民話が生まれるのだろうか。

歴史の実相が垣間見える『天佑なり:高橋是清・百年前の日本国債』2017年01月23日

『天佑なり:高橋是清・百年前の日本国債(上)(下)』(角川文庫
 『高橋是清自伝』を読むと、半生ではなく一生を記述した伝記も読みたくなり、幸田真音氏の『天佑なり:高橋是清・百年前の日本国債(上)(下)』(角川文庫)を読んだ。

 幸田真音氏の小説はかなり以前に『日本国債』を読んだ記憶があり、債券ディーラー出身で金融に明るい人との認識がある。本書は2013年に出版された単行本の文庫版で、金融経済史をふまえた高橋是清伝だと推察し、現代の視点で俯瞰的に高橋是清を総括した伝記だろうと期待した。

 その期待は半分ぐらいは満たされた。前半はやや期待外れだった。生い立ちから日銀副総裁になるまでの前半は、自伝をなぞっているだけの感じだ。波瀾万丈の前半生なので、自伝を読んでいなければ十分に面白く読めたとは思うが、自伝を読んだ直後だと重複のくり返しで退屈する。後世の作家の俯瞰的な目による独自の見解があまり感じられない。

 日露戦争に関連して海外で日本国債を発行するあたりからは面白くなる。日露戦争の頃から高橋是清の人生が日本の金融経済史と密接にからんでくるので、歴史の動きの実相を垣間見ている気分になってくる。

 やはり、高橋是清の人生の中でいちばん面白いのは日露戦争時の資金調達のくだりだ。一般会計歳入が2億6千万円の時代に戦費支出は18億7千万円、その膨大な戦費の約半分を高橋是清が欧米で調達したのだ。「天佑なり」というタイトルは、ロンドンで日本国債発行にこぎ着けたとき高橋是清が発した言葉であり、自伝では「私は一にこれ天佑なりとして大いに喜んだ」と語っている。

 それにしても、日露戦争が日本の国力をはるかに超えた戦争であり、外貨がいかに逼迫していたかを知っている国民はいなかった。マスコミも把握していなかった。政府中枢と一般国民との意識の乖離からポピュリズムが生まれ、講和条件に反対する暴動につながる。後世からは愚かに見える事象だが、そんなことは現代に到るまでくり返されている。学ぶべきことは多い。

 日露戦争以降の後半三分の一は日本激動の時代であり、高橋是清の人生も激動する。日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣、さらに何度も大蔵大臣を歴任し、政治の中枢に関わる人生になる。日露戦争(1904年)時に49歳だった高橋是清が二二六事件(1936年)で暗殺された時は81歳、この間の32年は自伝では語られていない後半生だ。

 この後半32年間の記述は確かに面白い。しかし物足りない。第一次大戦、関東大震災、金融恐慌など多事多難の時代で、政党政治が定着し、そして崩壊し、軍部が台頭してくる時代である。この32年の歴史はどれほどページを費やしても語りきれない疾風怒濤の濃い時代だ。その時代の実相を高橋是清の伝記だけから把握するのは無理であり、それを求めるのはないものねだりだろう。

 だが、いわゆる「政治家」ではなかった高橋是清に沿って明治・大正・昭和の政党政治を批判的により掘り下げて検証する内容になり得たのではないかとも思える。

『バブル:日本迷走の原点』は同時代の歴史書2017年01月28日

 『バブル:日本迷走の原点/永野健二/新潮社』
 高橋是清の自伝と伝記に続いて『バブル:日本迷走の原点/永野健二/新潮社』を読んだ。明治から昭和初期までの金融経済史から一気に1980年代の金融経済史に飛んだわけだが、経済の側面から歴史を眺める面白さが共通している。

 営々とくり返される人々の様々な活動に触れ、いつの時代でも将来を予見するのは難しいという当然のことをあらためて感じた。もちろん正しい予見や的確な判断をする人は存在するが、それが同時代に受け容れられないケースが多い。後世の目が必ずしも時代を正しく把握できるわけではないとしても、時間が経過しなければ見えてこない事象は多い。

 『バブル』の著者はバブルの時代の経済事件を最前線で取材してきた元日経新聞記者だ。本書の指すバブル期とは1980年代後半で、1989年末には日経平均株価は38,957円という史上最高値をつけ、1990年になると株価は急落する。続いて高騰していた地価も下落し、破綻する企業があい継ぎ、不良債権を抱えた金融機関の再編が進む。

 著者は1949年生まれだから30代後半にバブル期を過ごし、40代になってバブルがはじける時代を体験している。本書にはさまざまな経済事象の現場に立ち会った人の迫力と面白さがある。同時に当時の経済事象を鳥瞰的に検証・総括する冷静な視点もあり、新聞記事の面白さと歴史書の興味深さを合わせた本だ。

 本書の眼目は「失われた20年」をもたらしたバブルの真犯人の追求である。著者はその真犯人を経済構造の変革を先送りにしてきた大蔵省の官僚たちと銀行の経営者たちだとしている。その主張には共感できるが、著者の言う「経済構造の変革」のイメージがいま一つ把握しきれなかった。

 私は著者とほぼ同世代なので、社会人として最も多忙な時期にバブルとバブル後を過ごしてきた。金融や不動産とは縁のない業界にいたせいか、バブルを実感した記憶は薄い(その後のITバブルは身近に観たが…)。だが、本書を読むと当時のいろいろな経済事件が思い起こされ、あらためて「そうだったのか」と事象の意味を認識することが多かった。

 本書で、同時代の事象を歴史的視点で把握することの難しさと面白さを感じた。

直木賞落選の『また、桜の国で』は骨太で面白い2017年01月30日

『また、桜の国で/須賀しのぶ/祥伝社』
 先日発表になった第156回直木賞に落選した『また、桜の国で/須賀しのぶ/祥伝社』を読んだ。直木賞を逃した理由がわからないでもないが、私には凡百の受賞作よりは面白く読め、感服した。

 この小説の値打は題材だ。舞台はポーランドのワルシャワ、時代は1938年のミュンヘン会談から1944年のワルシャワ蜂起までの6年間。ただし、その前後の話も少しだけある。1920年、シベリアにいたポーランド孤児を日本が救出した逸話と大戦終結から8年経った1953年の後日談だ。主人公はワルシャワの日本大使館に勤務する若き外交官・棚倉慎、彼の母親は日本人だが父親はロシア革命で亡命を余儀なくされたロシア人だ。

 構えの大きいこの舞台設定がいい。最初のシーンはベルリンからワルシャワに向かう夜行列車だ。赴任地に向かう主人公は車内でドイツ系ポーランド人のユダヤ人青年と知り合いになる。壮大な近代史ドラマを予感させる書き出しだ。

 その予感通り物語は以下の史実を組み込みながら展開していく。

  1938.9.28 ミュンヘン会談でズデーデン地方のドイツへの割譲決まる
  1939.8.23 ドイツとソ連が不可侵条約調印
  1939.8.28 独ソ不可侵条約により平沼内閣総辞職
  1939.9.1 ドイツ軍がポーランドに侵攻。第二次大戦終勃発
  1939.9.3 イギリス、フランスがドイツに宣戦
  1939.9.17 ソ連軍がポーランドに侵攻
   1939.9.27 ポーランドがドイツに降伏
  1940.6.14 ドイツ軍がパリ占領
  1940.9.27 日独伊三国同盟調印
  1941.6.22 ドイツ軍、ソ連侵攻。独ソ戦開始
  1942.7.22 ワルシャワ・ゲットーでユダヤ人虐殺
  1943.2.27 カチンの森事件発覚(ポーランド将校の大量の遺体発見)
  1944.8.1 ワルシャワ蜂起

 この小説を読んでいると、これらの歴史的事件をリアルタイムに体験している気分になり、近代史のおさらいになる。と言っても、歴史小説というよりは冒険小説に近い。やや感傷的で甘い感情に流れる部分もある。直木賞の選考委員たちからは文学性が低くて通俗的と見なされたのかもしれない。だが、物語に大きな破綻はなく、人種・民族・国家を問う今日的テーマも秘めらている。骨太で直球勝負の気持ちよさがある小説だ。

 もっとハードボイルドに仕立てた方がより面白くなったように思える。

 ◆◆◆注意!! 以下、ネタバレあり◆◆◆

 この小説の背景には、かつて日本がポーランド孤児を救出した話がある。私はこの小説を読むまでこの史実を知らなかったが、書籍やマンガにもなっているようだ。ロシア革命後の1919年、ポーランドとソビエトの戦争が始まり、シベリアに多くのポーランド孤児が残された。その孤児を救済したのが日本だった。1920年から1922年にかけて765名のポーランド孤児を受け入れ、孤児たちは日本各地で1年ほど生活した後、ポーランドへ帰還した。

 小説では、主人公の棚倉慎は幼少期に同年代のこのポーランド孤児と接する。巧みな仕掛けだ。

 主人公の父親はロシアから亡命者した植物学者で、自宅のピアノでショパンの『革命のエチュード』を奏でるような人だ。ショパンはポーランドを代表する作曲家である。日本の外交官である主人公の風貌は日本人離れしていてスラブ系に近い。ユニークな設定だ。

 私はこの小説の途中から、主人公の父親は実はロシア人ではなくポーランド人だろうと推理した。ロシア革命の時に日本に亡命してきたロシア人の中には、ロシア人を偽装したポーランド人も多数含まれていたという記事を読んだことがあるからだ。父親は息子に自分がポーランド人であることを秘匿しているが、息子はどこかの時点からそれに気付いていた。そして最後にそのことが明かされるという展開を予想していた。

 しかし、その推理と予想は外れた。残念だ。ロシア人としてロシア語を話すがショパンを奏でる父親が実はポーランド人だった、とした方がより面白くなったと思うのだが……