地図をチェックしながらカエサルの『ガリア戦記』を読む2016年05月01日

『ガリア戦記』(カエサル/近山金次訳/ワイド版岩波文庫)、『ガリア戦記』(カエサル/國原吉之助訳/講談社学術文庫)
◎岩波文庫で読み始めたが…

 カエサルの『ガリア戦記』を読んだ。10年ほど前に読んだ塩野七生の『ローマ人の物語』で『ガリア戦記』の文体をベタ褒めしていたので、いつか読もうとワイド版岩波文庫で入手、未読の棚に積んだままだった。先般、小説『背教者ユリアヌス』を読み、副帝としてガリアに赴任するユリアヌスが『ガリア戦記』を読むシーンに接し、宿題を思い出した気分になって本書を手にした。

 読み始めてすぐ、塩野氏の賞賛する文体の魅力を得心した。無駄のないキビキビした文章が心地いい。塩野氏は『ガリア戦記』の魅力を紹介するにあたって、小林秀雄が1942年に記した文章を引用している。以下、その一部を孫引きする。

 「最近、近山金次氏の翻訳が出たので、初めて、この有名な戦記が通読出来た。少し許り読み進むと、もう一切を忘れ、一気呵成に読み了へた。(略)訳文はかなり読みづらいものだつた。だが、そんな事は少しも構はぬ。発掘された彫刻の表面が腐蝕してゐる様なものである。原文がどんな調子の名文であるかすぐ解つて了ふ。」

 小林秀雄がこの文書を書いたのは太平洋戦争中で、彼が読んだのは1941年初版の岩波文庫版と推測される。私の手元にある近山金次訳の岩波文庫版『ガリア戦記』は、戦後に改訳されたものだ。それでも、小林秀雄が指摘するように「かなり読みづらい」訳文だ。

 私はこの岩波文庫版で途中まで読んだが、書店で國原吉之助訳の講談社学術文庫版を見つけ、少し迷ったうえでそれを購入した。講談社学術文庫版に切り替え、冒頭から読み返した。

◎講談社学術文庫に切り替えた理由

 國原吉之助訳が近山金次訳よりは読みやすいのは確かだが、読書の途中であえて講談社学術文庫版に切り替えたのは訳文のせいだけではない。収録されている地図と索引に惹かれたからだ。

 『ガリア戦記』はさほど分厚い本ではない。文章もわかりやすく、その気になれば一気に読めそうな本だ。しかし、おびただしい未知の固有名詞(その多くは部族名)に悩まされる。割り切って読み飛ばしてもいいのだが、地図上でその部族の住む場所を確認しながら読んだ方が面白い。

 岩波文庫版にも講談社学術文庫版にも地図や索引が収録されていて、地図を参照しながら読み進めることは可能だ。しかし、岩波文庫版は本文の部族名がカタカナ表記なのに地図では部族名が英字表記で座標もない。地図で場所を確認するのはかなりの手間である。講談社学術文庫版の地図は、部族名がカタカナ表記で座標もあり、索引から場所を探すのが容易だ。こちらの方がはるかに使いやすい。

 ガリアとは現在のフランスとその周辺の地域で、紀元前1世紀のカエサルの時代、この地域には多くの部族が割拠していた。『ガリア戦記』にはおよそ100の部族が出てくる。これらの部族の住む場所を地図で確認しながら読み進めるのは、かなり大変な作業だ。文庫本見開きの地図をA4判に拡大コピーし、部族名を巻ごとに色の違うマーカーでチェックしながら読み進めたが、途中から色が混合してわけがわからなくなり、地図はヨレヨレになった。

 地図が手離せない時間がかかる読書ではあったが、カエサルが軍団を引き連れて8年のあいだ西ヨーロッパをくまなく東奔西走した様子を鳥瞰した気分になった。

◎抵抗するガリア人も頑張っている

 『ガリア戦記』は部族たちとの戦闘(主に反乱の鎮圧)の記録であり、地理や風俗の報告書でもある。ガリアでの戦さの意義を語っている本ではない。この地域に平和をもたらすのが目的のように書いているが、ローマの軍団が部族割拠の地域を侵略しているように見える。

 カエサルの意図は、この地域をローマ支配下の属州にすることだったはずだ。言葉を換えれば、ローマ人によってこの地域を文明化しようとしたのだ。

 これはガリア人とっては大きなお世話で、ローマ人を排除して自分たち部族だけでやって行きたいと思う人々が登場するのも当然だ。だから面従腹背の部族も現れるし、もぐら叩きのようにあちこちで反乱が起き、反乱の連鎖が発生したりもするのだ。

 『ガリア戦記』を読んでいると、ローマに抵抗するガリア人たちもよく頑張ったなあと思えてくる。それほどに公平に客観的に書かれているとも言える。やはり、カエサルは不思議な魅力をもった人物だ。

◎二つの訳文を比べれば…

 『ガリア戦記』は8年間の記録で全8巻、1年1巻の構成になっている。カエサルが書いたのは7巻までで、8巻目はカエサルの死後、秘書が書き足したものだ。岩波文庫版は7巻までだが、講談社学術文庫版は8巻まで収録している。講談社学術文庫版の分量が多いのは巻数が多いからだけではない。國原吉之助訳の方が近山金次訳より日本語が長くなっているようだ。

 國原吉之助訳は近山金次訳より日本語がこなれていてわかりやすい。それに親切である。理解しやすいよう、「注」にすべき事項を本文に補足している部分もある。

 例えば、古代ローマでは年を数字ではなく「○○と△△が執政官であった年」と表記するが、國原氏はあえて「○○と△△が執政官であった年、すなわち紀元前◎年」と訳している。カエサルが「紀元前」などという用語を使うはずないが、この方がわかりやすい。また、近山金次訳では指示代名詞になっている箇所が國原吉之助訳では具体的な部族名になっている訳文も発見し、訳者の心遣いを感じた。

 國原吉之助訳と近山金次訳では國原吉之助訳に軍配をあげざるを得ない。しかし、パラパラと両方を読み比べながらふと思った。ぶっきらぼうでブツブツと切れた愛想のない近山金次訳の方がカエサルの文体の魅力を伝えているのかもしれないと。小林秀雄が「読みづらい」近山金次訳からカエサルの文体の魅力を嗅ぎとったのは、その「読みづらさ」のせいかもしれない。ラテン語を解さない私には確かめようもないが。

◎部族の末裔の現代人はどう読むのか

 カエサルは『ガリア戦記』の4巻目、すなわち紀元前55年にはじめてブリタンニア(現在の英国)に上陸している。チャーチルは、これをもって「英国の歴史は、カエサルが上陸した時に始まった」と語ったそうだ。

 カエサルに攻め込まれたことが誇りかどうかはわからないが、現代の西ヨーロッパ諸国は、その歴史の起源を『ガリア戦記』の時代に見出そうとしているようだ。彼らのご先祖にあたる部族の面々がカエサルに抵抗したり協力したりしていた時代である。

 とすれば、現代のフランス人、スイス人、ベルギー人、イギリス人、ドイツ人たちは『ガリア戦記』をどう読んでいるのか興味深い。部族の人々に感情移入するのか、カエサルに共感するのか、どちらなのだろうか。

 そんなことを思って、わが日本のことを連想した。当時の日本は弥生時代中期、ガリア地域ほどにも発展していなかったかもしれないが、部族国家の時代だったようだ。中国は漢の時代だ。大陸からカエサルのような人が上陸してきていたら……などと考えて、日本史の起点が漢から金印をもらった倭奴國だと思い至った。わがご先祖の部族たちもガリアやブリタンニアのご先祖たちも似たような存在だったかもしれない。チャーチルの感慨がわかるような気がする。

イノシシ対策のセンサーライトを設置2016年05月09日

 5月8日、9日で八ヶ岳南麓の山小屋へ行き、畑仕事をしてきた。2週間前に植えたジャガイモは芽が出かかっているのが数本あるが、大半はまだ芽を出していない。

 昨年はジャガイモの大半をイノシシにやられた。今年はどうしたものかと思案し、ネットを検索していると、センサーライトが効果的との記事があった。

 昨年、イノシシ被害を免れた一部のジャガイモは山小屋の入口に近い場所に植えられていた。考えてみれば、そこはセンサーライトのカバーエリアだった。ちなみに、周辺に外灯などない山小屋では駐車スペースから入口までの間を照らすセンサーライトは必需品だ。

 イノシシ被害を免れたのは、イノシシが山小屋に近い場所を人間のテリトリーだと判断してくれたのではと、根拠のない身勝手な推測をしていたのだが、センサーライトのおかげだったのかもしれない。

 今年ジャガイモを植えた場所は山小屋側ではあるが、入口とは反対側なのでセンサーライトのカバーエリアではない。そこで、新たにセンサーライトを設置しようと考えた。その設置場所は電源から遠いので配線が面倒だなあと思いながらホームセンターのセンサーライト売場に行った。すると、乾電池で作動する製品があったので、迷わず購入した。

 ということで、今回はタネまきや畝作りなどの畑仕事に加えて乾電池式センサーライト設置の作業をした。作業というほどの手間ではなく1~2分で設置できた。夜になって試してみると、畑への侵入者に反応して点灯する。乾電池で点灯するLEDで、入口のセンサーライトに比べると光の強さはかなり劣る。

 はたして、この新兵器が効果を発揮するか否か。およそ2カ月先の収穫期には答が出る。

原作を読んでから映画を観た2016年05月15日

 火星に一人取り残された宇宙飛行士のサバイバルを描いた映画『オデッセイ』が公開されたのは数カ月前だった。観たいと思っていたが、つい機会を逸してしまった。

 その後、この映画の原作『火星の人(上)(下)』(アンディ・ウィアー/小野田和子訳/ハヤカワ文庫SF)が本屋の店頭に並んでいるのを発見し、購入した。2年前に刊行した翻訳本を映画公開にあわせて新装版にしたものだ。この本を手にするまで、原作のある映画だとは知らなかった。

 この小説、実に面白い。読みだしたらやめられず、一気読みした。著者の処女作だそうだ。読む前から、火星に取り残された宇宙飛行士が生還する話だとわかっているし、半分も読めば情況と展開が見えてくる。その先は「困難発生」→「克服」のくり返しだろうと予測できてしまう。にもかかわらず、一気読みせざるを得ないのは、多様な知見に裏づけされたディティールに説得力があり、物語世界に引きずり込まれてしまうからだ。

 小説を読み終えて、きっと映画はこの小説ほどには面白くはないだろうと思った。経験的に原作の面白さを超える映画に出会うことが滅多にないからだ。しかも、この小説の面白さは、よくできた映画のような面白さなので、小説を読むだけで映画を堪能した気分になってしまう。この気分を凌駕するのは容易でないと思えた。

 にもかかわらず、小説を読み終えると「映画も観たい」と思った。「SFは絵だ」という言葉がある。活字によってイマジネーションを紡ぎ出すのがSFの醍醐味だが、それを具体的な映像で眺めて堪能したいという欲求は抑えがたい。

 そして本日、下高井戸シネマで映画『オデッセイ』を観た。予感したとおり、原作の面白さを超える映画ではなかった。原作に詰め込まれたオタク的ディティールを映画に盛り込むのが困難なのは当然だろう。しかし、原作を補完する映画と割り切れば十分に楽しめる。迫力十分の「動く挿絵」を鑑賞していると思えば贅沢な気分にもなれる。