辻邦生の『背教者ユリアヌス』を読んで60年代を想う2016年04月10日

『背教者ユリアヌス』(辻邦生/中央公論社)
◎読み始めると面白くて一気読み

 いずれ読もうと古書店で購入したまま書架に眠っていた『背教者ユリアヌス』(辻邦生/中央公論社)をついに読んだ。二重函入り二段組み720ページ(二千枚)の大著で、読み始めるには気合が必要だったが、導入部から物語の世界にひきずりこまれ、ほぼ一気に読み終えた。

 この本を購入したのは5年前、塩野七生の『ローマ人の物語』(薄い文庫本で43冊)を読了した直後だった。読み始める機を逸し、その後、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』に取りかかったので、辻邦生は後回しになった。

 『背教者ユリアヌス』の刊行は1972年10月、連合赤軍あさま山荘事件や日本赤軍テルアビブ空港乱射事件があった年で、私の大学生活最後の年だった。その頃、この分厚い本を書店で手にしたが、購入しようとは思わなかった。古代ローマ史には暗くユリアヌスは未知の人だったし、辻邦生という理知的なイメージの作家にもさほどの関心はなかった。この直方体の箱のような本に接して「何とも浮き世離れした小説のようだなあ」との感慨を抱いた。

 この小説が記憶に刻印されたのは「背教者」という異様な修飾語のせいである。このタイトルに接して以降、ユリアヌスは気がかりな人物の一人になった。そして、『ローマ人の物語』や『ローマ帝国衰亡史』を読んでからは、私にとってユリアヌスは「気がかりな人物」から「魅力的で興味深い人物」へ転換した。

◎哲学青年から皇帝になって夭折

 ユリアヌスは数奇な運命をたどり、32歳で戦死したローマ皇帝である。キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝の甥として生まれ、幼少の頃に親族が粛清され、幽閉生活の中で成長する。ホメロスやプラトンなどを愛読する勉学好きの哲学青年で、政治への野心はなかった。しかし、はからずも副帝に任命されると、さほど期待されていなかった軍事的才覚を発揮、ついには皇帝にまで登りつめる。だが、在位1年半で夭折する。

 当時のローマ帝国では公認のキリスト教が一大勢力となり、古来の多神教は廃れかけていた。ギリシア哲学の徒だったユリアヌスは、皇帝になるとローマ帝国古来の宗教の復活に着手する。キリスト教を弾圧したわけではなく、ワン・オブ・ゼムの宗教と見なし、キリスト教批判も展開する。それが「背教者(アポスタタ)」と呼ばれる所以だ。キリスト教から見た蔑称が今日に至るまでユリアヌスの修飾語になったのだ。

 辻邦生の『背教者ユリアヌス』では、ユリアヌスは感性豊かな理性の人と描かれていて、キリスト教者の多くは頑迷で打算的で蒙昧な人々と描かれている。コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認した情況の中では、身すぎ世すぎでキリスト教に改宗した人も多かったし、皇帝権力に接近して権謀術数でキリスト教の勢力拡張を図る司教もいた。だから、小説とはいえ、辻邦生の見方は当時の宗教情況を巧みに描いているように私には思えた。キリスト教の信者には受け容れ難い見方かもしれないが…。

◎ギボンの見方

 キリスト教徒だったギボンはユリアヌスをどう見ているか。18世紀の啓蒙家ギボンは『ローマ帝国衰亡史』において辛辣なキリスト教批判を開陳している。刊行当時、蜂の巣をつついたような騒ぎを起こしたそうだ。そんなギボンだから、ユリアヌスの勇気、知能、努力を高く評価し、十分に魅力的に描いている。ただし、辻邦生の小説のように、ユリアヌスを理性の人、キリスト教者を蒙昧な人ととらえているのではない。ユリアヌスが古代の神々の復活に執心したことを妄想的信仰と見なして批判している。さすが、啓蒙思想の人である。

◎塩野七生の評価

 排他的な一神教に批判的な塩野七生はユリアヌスをどう見ているか。『ローマ人の物語』でユリアヌスはかなり魅力的に描かれてはいるが、やや突き離しているような印象も受ける。反キリスト教「改革」の稚拙さに関して「ユリアヌスには、ローマ文明がわかっていたのかと疑ってしまう。」とも述べている。

 しかし、ユリアヌスに関する章の末尾部分では以下のように評価している。

 「ユリアヌスについて深くも考えていなかった頃の私は、この若き皇帝を、アナクロニズムの代表のように見ていたのである。(略)思慮の浅い人物だろうと思いこんでいたのだった。」「しかし、今はそのようには見ていない。それどころか、もしも彼の治世が、十九ヵ月ではなくて十九年であったとしたら、その後のローマ帝国はどうなっていたのだろう、と考えてしまうのである。」「宗教が現世をも支配することに反対の声をあげたユリアヌスは、古代ではおそらく唯一人、一神教のもたらす弊害に気づいた人ではなかったか、と思う。」

 一神教のもたらす弊害は現代にいたるまで克服されず、21世紀になってますます顕在化している。そう考えると、『背教者ユリアヌス』はきわめて今日的な課題を秘めた小説に見えてくる。

◎やはり同時代小説

 そんな感想を抱いて、この小説が刊行された1972年頃のことを思い起こすと、この小説に「何とも浮き世離れした小説のようだなあ」と感じたのは見当はずれだったと思えてくる。そんなノンキな小説ではなく、1960年代の狂騒と残照を反映した物語のように見えるのだ。ラストシーンは1960年代を見送る挽歌のようでもある。この小説の数年前に刊行された似たような長さの長編小説『邪宗門』(高橋和巳)に通底するものも感じる。

 挫折した革命(世直し)物語ととらえるのは安易すぎるし、キリスト教にマルクス主義を重ねて見るのはうがちすぎだが、古代ローマの叙事詩に1960年代の空気がひそやかに流れているように感じてしまうのだ。