追悼・大島渚2013年01月16日

『忍者武芸帖』『絞死刑』の新宿アートシアターのチケット
 大島渚監督が亡くなった。私が若かった頃に最も影響を受けた映画監督だ。
 一番印象深い作品は『絞死刑』だ。私にとっては大島渚の最高傑作である。『新宿泥棒日記』も『絞死刑』と甲乙つけがたい怪傑作で、強烈な印象を受けた。ただし、『新宿泥棒日記』の迫力は出演者のひとり唐十郎の存在感に負うところが大きい。大島渚作品という意味では『絞死刑』が一番だと思う。

 大島渚監督の映画をよく観たのは大学浪人から大学生の頃だった。半世紀近く昔のことである。自分の記憶があてにならないことは十分に承知している。昔の出来事の前後関係や年代が混乱するのは日常茶飯事だ。しかし、『絞死刑』を観た日はわかっている。1968年2月5日、私は19歳だった。

 私の部屋の隅に積み上げている段ボール箱に過去に遺物のような文書袋が詰まっている。数週間前からこの段ボール箱の整理に取り掛かっている。先日、その中から昔の映画や演劇のチケットが出てきた。当時の大島渚監督作品では、新宿アートシアターで上演した『忍者武芸帖』と『絞死刑』があり、その裏に自筆で日付メモがあった。『忍者武芸帖』を観たのが1967年3月8日、『絞死刑』を観たのが1968年2月5日だ。ビンボー学生だった当時、映画を観るのも一大事業で、わざわざメモまで残したのだと思う。われながら健気である。

 初めて観た大島渚作品は『日本の夜と霧』だったと思う。新宿アートシアターでの再演だ。『忍者武芸帖』と同時上映だったような気もするが曖昧だ。いつ観たかの記憶は不明確だが、内容の印象は明確に残っている。延々と続く結婚式のスピーチの応酬が激しい政治討論に拡がっていく非日常観に圧倒され、「これが政治映画なのか、これが大島渚なのか・・・」とびっくりした。

 『絞死刑』も政治的メッセージの強い映画ではあるが、それをストレートに発信しているのではなく、不気味で超現実的なユーモアを内包している。即物的な映像のなかに国家という抽象的なものが浮かび上がってくる表現に圧倒された記憶がある。いままで見えていなかった世界が見えてきたような気がしたとも言える。この体験は『新宿泥棒日記』を観たときの体験にも共通している。

 あのとき、映画を観て「いままで見えなかった世界が見えてきた」と感じたのは真実の一端が見えたのだろうか、それとも幻想だったのだろうか。半世紀近く経って、『絞死刑』『新宿泥棒日記』を観たときの印象を反芻してみて、あのときに何が見えたかはどうでもいいことだと思えてきた。
 世界を新たな目で見ることができたと思える体験こそが貴重だったのだと思う。そんな体験は、芸術からも科学や社会科学からも実人生からも得ることが可能だが、とは言っても、簡単にしょlっちゅう得られるものではない。それを積み上げていくことが、人生の意味のようにも思える。

 それはともかく、古文書の段ボールを整理しているときに出てきた古い新聞記事に次のような大島渚インタビューが載っていた。

-------------------------------
 溝口健二は。
 「自分というものを表現できなかった作家ね。あのヒト。それが技術という形になった」
 黒沢明は。
 「彼は自分を表現したけれど、あのヒトの自分は深い世界じゃなかった。クロサワの人気はつくられたものです」
 今村昇平は。
 「自分の世界を守るという点じゃネバるが、ただ守っているだけでは自己完結的になってしまう。たたかわなければ」
 たたかっているのは。
 「大島渚だけだと思う」
  (1970年5月4日 朝日新聞朝刊「70年代の百人」より)
-------------------------------

 大島渚38歳、『東京戦争戦後秘話』を公開した頃の記事だ。昔から元気でナマイキだったのだ。

 蛇足ながら、今回、ウィッキペディアで大島渚を検索して彼の出生地が岡山県玉野市だと知った。私と同じ出生地だった。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
ウサギとカメ、勝ったのどっち?

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://dark.asablo.jp/blog/2013/01/16/6692849/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。