われわれ自身の中のニヒリズムにどうむきあうか2012年05月02日

『反・幸福論』(佐伯啓思/新潮新書/2012.1)、『資本主義はニヒリズムか』(佐伯啓思・三浦雅士/新書館/2009.10)
 『反・幸福論』(佐伯啓思/新潮新書/2012.1)
 『資本主義はニヒリズムか』(佐伯啓思・三浦雅士/新書館/2009.10)

 タイトルに惹かれて『反・幸福論』(佐伯啓思/新潮新書)を読んだ。「人はみな幸せになるべきなんて大ウソ」「日本の伝統精神のなかには、人の幸福などはかないものだ、という考えがありました」などのオビの惹句にも興味をそそられた。

 読み終えると、少し気分が鬱してきた。行き詰まった世界に生きているような暗い気分になる。その気分を再確認したいと思ったわけではないが、続いて『資本主義はニヒリズムか』(佐伯啓思・三浦雅士/新書館)も読んだ。数年前に購入し、冒頭部分を読んだだけでそのままになっていたので、この機会に読んでおこうと思ったのだ。

 『反・幸福論』は東日本大震災の体験をふまえて、「末世」にも似た現代社会におけるわれわれの精神状況を述べている。
 『資本主義はニヒリズムか』は、リーマンショックによって発生した金融危機を背景に出版された本だ。タイトルは疑問文だが、内容は「現代の金融資本主義はニヒリズムでしかありえない」と言い切っている。

 佐伯啓思氏は現代社会の根底にあるニヒリズムに深い関心をもつ研究者だ。自身が虚無主義者というわけではないだろうがニヒリズムへの言及が多い。以前に読んだ『現代文明論』では、「西欧近代の帰結である現代文明はニヒリズム状態に気付かない究極のニヒリズムに到達している」と指摘していた。

 今回読んだ二つの本もニヒリズム状態を論じた現代文明論だ。その指摘が間違っているとは思わないが、それをどうすべきかは見えない。

 『反・幸福論』を読み始める前、この本は現代の世相を批判して新たな生き方を提示している内容かなと思っていた。しかし、超然とした境地を説く痛快な人生訓・処世訓の書ではなかった。

 「人は幸福でなければならない」という強迫観念が不幸をもたらすという指摘やポジティブ・シンキング批判には共感できる。佐伯氏は、このような現代人の「不幸な」精神状況のよってきたるゆえんを、自由・平等・幸福追求などを至上とする西欧的近代化の必然の帰結と見なしている。それゆえに根が深く、克服が難しいのだという。この指摘が正しいか否か、私には早急には判断できないが、一定の説得力はある。

 現代のニヒリズム状態を克服する思想の萌芽として佐伯氏が提示している概念は「徳」「善」「死生観」「宮沢賢治の自然観」「法然の他力本願・悪人正機説」などである。至高な精神性の追究のようだが、私にはわからない。まだ、ついて行けない。

 『資本主義はニヒリズムか』は、佐伯啓思氏、三浦雅士氏の論文と二人の対談で構成されている。経済学者と文芸評論家という組み合わせを意外に感じたが、二人とも「思想界」の論客なので話はかみあっている。特に「資本主義はニヒリズムか」というタイトルの対談が面白かった。
 
 この対談で、三浦氏から「司馬遼太郎については…」と尋ねられた佐伯氏が司馬遼太郎史観を批判した指摘は興味深かった。明治の日露戦争まではよかったが、その後の昭和の軍部が間違えたという司馬史観を否定しているのだ。昭和を擁護するのかなと思ったら、そもそもの明治のスタート(特に大久保利通)から間違えたのだという説だった。傾聴に値する。

 また、1980年代に経済学のパラダイム・チェンジがあったという話も興味深かった。いまごろにになって「そうだったのか」と納得した。
 私は経済学の門外漢で、社会人になって「経済学を勉強しておかなければ…」という強迫観念でいくつか本を読んだ。1970年代の終わりで、サムエルソン、ガルブレイスなどが花形だった。佐伯氏によれば、1970年代には「シカゴ学派」「ケインズ主義経済学」「新古典派経済学」「ラディカル・エコノミクス」「制度学派」「ケンブリッジ学派」などが並立していた。まさに、私が経済学の「お勉強」をしていた頃の懐かしき経済学群だ。
 ところが、1980年前後には市場競争万能のシカゴ学派だけが残ったそうだ。いちばん科学的に見えたのが勝因だという。世の中の状況を眺めれば、確かに市場競争万能のようには見える。だが、うかつにも、経済学者にきちんと指摘されるまでは、経済学の世界がそんなに乱暴なことになっているとは知らなかった。
 いま、大学生はどのような経済学の教科書を使っているのだろうか。版を重ねていたサムエルソンの『経済学』はもう古くなっているのだろうか。

 佐伯啓思氏は私と同じ団塊世代だが、同世代意識を振りまわすような軽薄な人ではない。頭脳は明晰で、該博な知識をベースに自分自身の思想を紡いでいる人だと思う。
 私はその思想に必ずしも共感しているわけではないが、『反・幸福論』の「あとがき」を読んでニヤリとさせられた。あがた森魚の「赤色エレジー」について語っているのだ。
 「赤色エレジー」は林静一のマンガで、その世界を歌にしたのがあがた森魚だった。かすれ声で「幸子の幸はどこにある」という印象的なフレーズを嫋々と歌いあげる下駄ばきジーンズ姿は印象的だった。そんな歌を取り上げるところに、どうしようもない同世代を感じてしまう。当時から、陰々滅々とした暗さで話題だったあの歌を、佐伯教授は学生とのカラオケで披露したそうだ。そして、あまりの受けの悪さに、二度と歌うことをやめたそうだ。

 この「あとがき」を読みながら、吉本隆明が引用していた太宰治の『右大臣実朝』の次の一節が頭に浮かんだ。

 アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。