『虚像』(高杉良)を読んで経済小説の魅力について考えてみた2011年12月27日

『虚像(上)(下)』(高杉良/新潮社)
 高杉良氏の『虚像』(新潮社)を読んだ。高杉氏の小説を読むのは久しぶりだ。以前、高杉氏の経済小説にハマったことがあった。

 『虚像』はオリックスの宮内義彦氏をモデルにした経済小説だ。オビには次のように書かれている。

  男はいかに「政商」にのし上がり
  なぜ、表舞台から消えたのか―。
  紳士然たる風貌に隠された
  非情、恫喝、果てなき欲望。
  経済小説の第一人者が、
  「財界の寵児」の見えざる罪と罰に迫る!

 正直言って、このな惹句につられて読んだ。この「男」が宮内義彦氏であることはすぐにわかり、どんなことが書かれているのか興味をもった。
 上下2巻を一気に読了したのだから、つまらなかったわけではない。しかし、あまり面白くはなかった。これまでに読んだいくつかの高杉良氏の小説と比較しても、生彩を欠いているように思えた。

 なぜ面白くなかったのだろうか。

 『虚像』はオリックスと思われる企業の成長から金融危機で破綻寸前になるまでの物語である。テーマは宮内批判だろうが、物語の主人公は一人の社員だ。一流大学を卒業した主人公が、当時は彼の大学から行くような人がいなかったその会社に入社し、エリート社員として出世して経営幹部の執行役員になるまでの物語である。主人公の二十代から五十代までのかなり長い時間を扱っている。ただし、この主人公の視点からだけ描いているわけではなく、この間の経済事象や財界騒動などが多く盛り込まれている。

 本書読了後、元オリックス社員の知人に本書を貸した。彼の感想では「内容は概ね事実だ。人事の内実については真偽不明。主人公に該当する人物はわからない。架空の人物だと思う」とのことだった。

 本書で扱っている経済事件などが概ね事実であることは、多くの読者にとっても自明だろう。登場人物にも、それとわかる命名が多い(竹中平蔵→竹井平之助、ホリエモン→マルエモンなど)。
 登場人物の多くがモデルが誰だかわかってしまうので、週刊誌の記事を読むような感覚で興味深く読み進めることができる。ただし、全体として周知の経済事件をなぞっているだけの内容が多く、びっくりするような真実が暴かれているわけではない。本書がモノ足りないのは、そのせいだと思う。

 高杉良氏が宮内義彦氏や竹中平蔵氏を批判していることはわかる。しかし、彼らのどこがどのように「悪」なのか、宮内義彦氏がなぜ「虚像」なのかが伝わってこない。ノンバンクという事業が虚業だと指摘するだけでは迫力がない。
 本書は米国型の経営モデルや金融経済のうろんさを批判しているようでもあるが、評論ではなく小説でそれを表現するのは難しい。批判対象の人物を単に悪役風に描写するだけでは批判のカラ回りになってしまう。

 本来、宮内義彦批判、竹中平蔵批判はノンフィクションで表現するべきものだろう。しかし、私はそのようなノンフィクション本には食指が動きそうにない。どんな内容か想像できてしまうからだ。

 経済小説にはノンフィクションとは異なる魅力が必要である。
 経済や企業の実態を知りたいという「情報小説」的な要素は経済小説の魅力のひとつだが、それだけでは面白くない。ノンフィクションではアプローチが困難な舞台裏の様子を大胆な推理力と想像力で表現することが小説の利点である。そこに描かれた内容が真実か否かは不明だとしても、十分な説得力があれば「ひとつの見方」として面白く読むことができる。
 そして、経済小説の大きな魅力は、経済や企業という舞台で展開される人間ドラマを通して、社会的存在である人間の考え方、感じ方、行動を追体験することであり、それがどのように企業や経済を動かしていくのかを知ることだろう。

 その点、経済小説は歴史小説に似ている。しかし歴史小説と異なり、経済小説の登場人物の多くは読者にとって、より身近である。高杉良氏の読者は「こんな人イルイル。こんなことアルアル。こんな気持ちよくワカル。ウチの会社だけじゃなく他の会社もコウなんだ。」という感慨をいだくことが多いのではないだろうか。

 高杉良氏の読者の大半はサラリーマンだと思っていた。しかし、以前、経済や経営などにはほとんど関心がなさそうなバイトの主婦が高杉良ファンだと知って、少し驚いたことがある。現代の企業社会に生きる人々の生々しい人間模様の物語が経済小説だとすれば、読者層が広いのは当然なのかもしれない。