戊辰戦争は無駄で阿呆な戦争だった2011年06月21日

『幕末史』(半藤一利/新潮社)
 『幕末史』(新潮社)を語り下ろした半藤一利氏には江戸っ子のイメージがある。しかし、父の生家が長岡で、幼少の頃、祖母から「薩長なんて連中はそもそも泥棒だ」と繰り返し聞かされたそうだ。戊申戦争で逆賊にされてしまった長岡の血を引いているせいもあり、本書の「はじめの章」で著者は「『反薩長史観』となることは請合いであります」と宣言している。

 本書で扱う時代はペリー来航の1853年から西南戦争の1877年までの24年間だ。西南戦争は明治10年なので、24年の内の10年は明治であり、この間の歴史を語るなら「幕末維新史」とする方が適切のように思える。
 しかし、西南戦争までをあえて「幕末史」とした所に著者の史観がある。「維新」なんてフィクションだという見解である。

 歴史は、それを語る人の立場によって様相が異なってくる。歴史上の人物の誰に肩入れして語るか、誰に共感しているかによって、歴史はいろいろな見え方をする。幕末期は主人公がはっきりしない群像の時代なので、共感する人物の違いによって情景が違って見える傾向が特に強いように思われる。

 半藤氏がひいきにしているのは勝海舟である。明治32年まで生きた勝海舟は、多くの歴史座談を残している。晩年の勝海舟は、誰のことでもつい昨日会ったかのような調子で気さくに語ったそうだ。
 幕末期に活躍した人物たちを、身近な知り合いとして生き生きと語る勝海舟のさまは、出版社の求めに応じて幕末史を歴史講談のように語る半藤氏に似ているところがある。
 もちろん、著者は幕末を目撃しているわけではないが、二十数人の聴衆を前にした講義の縦横な語り口は魅力的である。話し言葉なので、登場人物も「阿部さん(阿部正弘)、堀田さん(堀田正睦)」、「わが愛する勝つぁん(勝海舟)」といった調子になる。あたかも目撃したかのような名調子になるのは、熟達の編集者の名人芸だ。

 半藤氏が勝海舟を評価するのは、幕府や薩長という枠を超えた国のかたちが見えていた人物と見なしているからだ。半藤氏は次のように語っている。

 「幕末にはずいぶんいろんな人が出てきますが、自分の藩がどうのといった意識や利害損得を超越して、日本国ということを大局的に見据えてきちんと事にあたったのは勝一人だったと私は思っています。」

 西郷隆盛や坂本龍馬に新たな国家像を吹き込んだのは勝海舟であり、船中八策のオリジナルは勝海舟と大久保一翁にあると指摘している。

 そんな勝海舟に共感する著者が語る幕末史のポイントは次の2点だ。

(1) 戊辰戦争は無駄で阿呆な戦争だった。薩長が天皇をうまく使って国家を乗っ取っただけの権力闘争・暴力革命だった。

(2) 戊辰戦争に勝利した薩長には、新たな国家の青写真も設計図もヴィジョンもなかった。

 本書が西南戦争と大久保利通暗殺までを一区切りとしているのは、西南戦争のきっかけになった征韓論の論争を戊申戦争の権力闘争の継続だったと見なしているからだ。暴力革命の決着までを幕末史としているのだ。

 戊申戦争を無駄で阿呆な戦争と見る視点は、その直前の大政奉還によって歴史はすでに大きく動いたと見なすことに通じる。
 戊申戦争がなくても、この時期に日本は封建社会から近代社会へ転換したはずであり、その場合の新たな国家の姿は薩長が作った明治国家とは違った形になったに違いない……そんな思いが伝わってくる本である。

 ヴィジョンなき薩長が作り上げたのは「維新」という言葉であり、皇国史観だった。戊申戦争がなければ、天皇制や天皇の位置づけも、その後の歴史とはかなり違った形になったはずだ。

 戊辰戦争がなかったとすれば、徳川慶喜がその後の時代の主役を担った可能性が高いように思われるが、半藤氏は徳川慶喜にはあまり同情的ではない。それほど高く評価していないようだ。慶喜よりは家茂が好きだったと思われる勝海舟の目を通した評価なのかもしれない。

 それはともかく、本書を読んであらためて感じたのは「理念やヴィジョンがなくても、ある種の熱気だけで世の中が大きく動いてしまうことがある」ということだ。
 それをよしとするか、危険なことと見るかは、人によって異なるだろう。半藤氏は後者だ。半藤氏は、日本人が戦争から学ぶ一番大切な点は、「熱狂的になってはいけない」ことだ、と常に語っているそうだ。

 熱狂的になっても碌なことはない、という教訓はよくわかる。しかし、覚めた分析や理性だけでは、人を動かすことも歴史を動かすこともできないだろう。理念やヴィジョンだけでは歴史は動かない。熱意と覚悟は必要である。熱意と熱狂は別物だが、世の中が大きく動く時代において、その違いを見抜くのは容易ではないように思える。

 現代は熱狂の時代ではないと思う。また、熱狂を呼ぶような政治家の熱意も感じられない時代である。こんな時代に、歴史はどのようにして動くのだろうか。