幕末気分とはソワソワ、ワクワクする「軽さ」か2011年06月19日

『幕末気分』(野口武彦/講談社)
 阪神大震災を体験した野口武彦氏は「歴史の変わり目には、自然災害と政治危機とは一つながりだという独特の現場感覚が日常的になる」という認識を得て、『安政江戸地震』を著わした。
 それに続いて上梓したのが『幕末気分』(講談社/2002.2)である。帯には「大混乱時代に人はこう動く」とある。

 『幕末気分』はタイトルが秀逸だ。「はしがき」で著者は次ような感慨を述べている。

「(阪神大震災後の漫画的な政局を見て)幕末政治家もこうだったのではないか。そう思ったらいっぺんに親近感が涌いた。先が見えず、まわりも見えず、一寸先の闇を手探る歴史の時間帯が再度到来しているのだ。心はすっかり幕末気分である。」

 9年前に書かれた文章だが、東日本大震災とその後の政治の混迷を体験しつつある2011年の現在こそ、この幕末気分がぴったりくる。

 『幕末気分』は、幕末のさまざまな情景を描いた7編で構成されている。それぞれのタイトルと論評対象は以下の通りだ。

・幕末の遊兵隊
  →第2次長州征伐に参加した幕府軍の行状
・帰ってきた妖怪
  →蛮社の獄で洋学者を弾圧した鳥居耀蔵が出獄したきた明治期の晩年
・地下で哭く骨
  →井伊直弼の謀臣として名を残した長野主膳
・道頓堀の四谷怪談
  →第2次長州征伐当時の大阪の芝居小屋での出来事など
・徳川慶喜のブリュメール十八日
  →鳥羽伏見の戦いにおける慶喜の大阪脱出
・吉原歩兵騒乱記
  →狼藉が原因で吉原で襲撃された歩兵の報復に吉原を攻撃した幕府歩兵隊
・上野モンマルトル1868
  上野の山の彰義隊の戦い

 それぞれにユニークな視点で語られていて興味深い。なかでも、「悲壮な将軍の下の遊惰な兵士たち」のびっくりするような実態を描いた「幕末の遊兵隊」が抜群に面白い。著者は幕府軍の兵士たちを次のように描いている。

 「(幕府軍の兵士たちの)日々の無責任な軽佻浮薄は、いかなる情勢に対しても雑俳と駄洒落と茶番で対応することしか知らない江戸文明をたっぷり吸収している。年季が入っているのだ。深刻になると冗談で切り抜ける。必死になるなんてヤボな真似はしない。こうなると立派という他ないほど、江戸っ子の骨髄にしみこんで死んでも直らぬスタイルなのである。このノンシャランスと長州兵の一心不乱の間には大きなギャップがある。」

 ここで描かれている幕末の「気分」は異常なほどに能天気な明るさである。

 また、『道頓堀の四谷怪談』では、この時代を次のように表現している。

 「人生が芝居のようだとはごくありふれた言い回しである。だが一時代の人間がみんな一斉にそう思い始めたとなると、もはや尋常ではない。実際その通りのことが起きていた時代が幕末だった。」

 本書全体に流れるトーンは、幕末期の人々の能天気とパフォーマンス感覚であり、国家の大事を見ずに権力闘争や保身に明けくれる政治家たちの「小者」ぶりである。ある意味での「軽さ」とも言える。

 私が子供の頃に接した幕末物のお話では、勤皇の志士(正義の味方である)が「日本の夜明けは近い」と見栄を切るのが定番だった。こんな科白によって「暗い封建時代が終わろうとしていて、明るい文明開化の時代が近づいている」という気分になったものだ。
 しかし、幕末期を生きた人々で、その時代を「暗い」と感じていた人はあまりいなかったのではなかろうか。
 尊王攘夷のテロが横行した数年などは、物情騒然とした非日常的時代だったと思うが、多くの人々はその時代を面白おかしく楽しんでいたのかもしれない。

 「幕末気分」とは、世紀末気分や末世気分のような鬱陶しいものとは違うようだ。危機意識をはらんだ軽薄さのようなもので、ソワソワ・ウカウカするような気分だったように思える。
 考えてみれば、幕末期に活躍した人々の多くは「軽快、軽薄、無節操、無責任」といった「軽さ」をもっていたように思える。「幕末気分」とは、そんな軽さを醸成する空気かもしれない。軽い時代が到来したからこそ、時代が動いてしまった、そのように思えてきた。

 もちろん、現代も軽い時代だと思う。