38年前の『日本沈没』で現代の日本を考える2011年04月17日

DVD『日本沈没』(1973年度作品)、『日本沈没(上)(下)』(小松左京/光文社/1973.3)
 昨日(2011年4月16日)の朝日新聞beの『再読』という欄に、『見るなら 日本沈没』という小さなコラム記事が載っていた。1973年のベストセラーを原作にした映画『日本沈没』の紹介だ。

 実はわが家でも先日、ささやかな『日本沈没』上映会を開催した。東日本大震災から約2週間後の週末、娘や息子や孫たちが来訪した機会に、昔のDVDを引っ張り出して、みんなに観せた。この先、生きていくには、「日本脱出」という極端な状況も視野に入れておくべきだ、とのやや大げさな教育的目論見もあった。
 娘は「前に観たから、もういいよ」と言う。「お前が観たのは、草彅剛のリメイク版だろう。あんな、日本が沈没もしない軟弱なのは本当の『日本沈没』ではない。昔のを観なければならない」と、上映を強行した。

 小松左京氏の『日本沈没(上)(下)』が出版されたのは1973年3月、400万部以上のベストセラーになった。映画『日本沈没』は同じ年の年末に公開、大ヒットした。「日本沈没」は一大ブームを引き起こしたのだ。

 『日本沈没』が出版された1973年は、私が新社会人になった節目の年なので、当時のことは比較的はっきり記憶に残っている。新入社員研修の日々に読んだ最初の小説が安部公房の新作『箱男』、その次が『日本沈没』だった。

 当時、『日本沈没』はなぜ大ベストセラーになったのだろうか。
 いま思い返せば、あの頃はまだ高度成長の真っただ中で、日本は元気がよかった。にもかかわらず、1973年頃は「終末論」が流行する終末ブームだった。『日本沈没』も単なる架空小説ではなく、一種の終末論として広く読まれたように思える。
 あの年、オイルショックが発生し、トイレットペーパーなどの買占めが起こった。新聞に載った「ゼロ成長」という単語に非現実的な不気味さを感じた。「成長の限界」という言葉もよく耳にした。
 狂騒の1960年代が終わり、空虚で不毛な終末の時代が近づいてくる予感もあった。筑摩書房が『終末から』という妙なタイトルの雑誌を創刊したのが1973年6月だ。この創刊号には、井上ひさし氏の『吉里吉里人』や小松左京氏の『おしゃべりな訪問者』などの連載第1回が載っている。

 「終末」や「破滅」がブームになったあの頃、実は「終末」や「破滅」をもてはやすだけの活力が、世の中にはあったのだと、いま思う。事実、その後もさらに経済成長は続いたのだ。

 久しぶりに映画『日本沈没』を観て、やはり、よくできた面白い映画だと思った。ついでに、原作も再読した。小説も示唆に富んでいて面白い。
 東日本大震災を体験した現在の私たちの目で観ても、『日本沈没』は今の時代にピッタリの作品である。日本の今後を考えるヒントの一つにはなる。

 『日本沈没』の再上映や再刊をすればいいのに、とも考えた。しかし、いま、この映画が上映され、小説が店頭に積まれても、現代の若い人々にはあまり受け入れられないような気もしてきた。

 そう思うのは、日本が破滅するという悲しむべき物語であるにもかかわらず、『日本沈没』には明るい活気のようなものが反映されているからである。
 映画『日本沈没』の特撮はSFXを観慣れた現代人にとってはチャチだが、役者たちの演技には、それを補って余りある迫力がある。主人公・小野寺役の藤岡弘の暑苦しい奮闘、首相役・丹波哲郎の熱い演説は、元気で活力ある当時の日本を反映しているように見える。
 このような「熱さ」を現代の若い人々は鬱陶しく感じて敬遠するのではないだろうか。
 似たようなことだが、現代の若者たちは『日本沈没』を大状況論的に上から危機を煽るものと見なし、そのようなものから目を逸らすかもしれない。
 時代閉塞のなかで妙に覚めてしまっている若者にとって、『日本沈没』は何ら切実ではない物語に見えるかもしれない。

 私がこのように現代の若者を不甲斐なく感ずるのは、私自身の感性の摩耗のせいで、単なる私の勘違いの可能性もある。そうならいいのだが。

 さて、映画『日本沈没』を観たあと原作を再読して気付いた点がいくつかある。

 映画『日本沈没』は、原作をかなり忠実に映画化していて、映画独自の効果的シーンも盛り込まれている。特に、小野寺と阿部玲子を交互に映すラストシーンは、原作にはない、映画ならではの秀逸な映像だ。

 首相の描き方も、映画と原作で多少異なっている。『日本沈没』は政治小説の要素も大きく、そこが大きな魅力になっている。首相の登場場面も多い。
 小説の首相には名前がないが、映画の首相には山本という名前がある。小説では、常に「首相」「この人」として登場する。

 昨日の朝日新聞のコラムでは、「国土消滅の危機を描いたこの映画は、丹波哲郎が演じた首相が事実上の主人公だった。」と書いている。その通りだと思う。丹波哲郎が熱演する山本首相は、印象深い名科白を連発する。コラムで紹介されている「爬虫類の血は冷たかったが、人間の血は温かい。これを信じる以外、私にはもう何もない」という科白をはじめ多くの名科白は、原作にはない。映画独自のものだ。

 小説の首相は独白はするが、あまり演説はしない。映画の首相のような「見せ場」はなく、リアリスト、ニヒリストの影がある。小説の首相のモデルは佐藤栄作だとも言われている。小説が首相に名前を与えなかったのは、「首相」を無名の記号にすることで、政治の機能を相対化して明示的に描く意図があったのかもしれない。

 映像に依存する映画が首相を事実上の主人公にし、佐藤栄作像を離れたやや理想的なリーダー像を造形したのはうなずける。人物に託さなくては政治を映像化するのは難しいからだ。鳥の目と虫の目が混合した大きな物語である原作も、首相をないがしろに描いているわけではない。国家の未曾有の危機を描くとすれば、やはり首相の果たす役割は大きく、それをきちんと表現しなければならない。

 そんなことを考えると、やはり、現在の日本の首相のことを考えないわけにはいかない。『日本沈没』の首相はヒーローではないが、自身の役割を十全に果たし、それを表現している。この映画を観ていると、優れた首相とは首相の役割を演じきることができる人物である、という気がしてくる。

 日本沈没ほどではないとしても、現在のわが国は未曾有の危機に直面している。菅首相がこの映画や小説に接したことがあるか否かは知らないが、この世代の平均的日本人ならば、この作品に接している可能性は高い。このようなフィクションの中にも、大衆へのメッセージの伝え方のヒントを見出し、首相の役割をきちんと演じきってほしいものだ。