原発、「イエス・バット」か「ノー」か(「天声人語」を読んで)2011年03月30日

 今回の福島第一原発事故に際して、あらためて原発について自分自身の考えを明確にしなければならないと思う。

 かつて、私は「反原発」が正しいと考えていた。その後、いつの頃から「イエス・バット」になっていった。
 「ノー」から「イエス・バット」に移行したのは、年を取るに従い現状追認の保守的な考えになってきたからかもしれない。「反原発」にラダタイト的な匂いを感じ、科学技術は不可逆的に「進歩」し続けるしかないのだとも考えた。われわれは電気なしの世界に戻れないし、人類はE=MC2のエネルギーを無視できる筈がないとも思った。
 もちろん、放射線廃棄物の問題は認識していたが、それも人類が克服しなければならない課題の一つのように思えた。この世に百パーセントの安全はあり得ず、何事にもリスクはあり、要はリスク管理の問題だと思えた。

 とは言っても、さほど突き詰めて考えていたわけではない。何も考えていなかったという方が正しい。そして、今回の事故に際して、やはり原発に対しては「ノー」であるべきだと考えるようになった。
 われながら、定見のない、軟弱な日和見的態度だと思う。

 で、本日(2011年3月30日)の朝日新聞の天声人語を読んで、何とも釈然としない気分になった。今回の事故は東電の想定が間違っていた、という東電批判の内容だ。次のような文もある。
 〔多くの学者が国策になびく中、脱原発を貫いた高木仁三郎氏がご健在ならと思う〕〔電力会社は論敵(高木氏)の視座から出直すしかない。「最悪」を免れ、原発という科学が残ればの話だが。〕」

 東電批判は当然だが、私が釈然としないのは、このコラムが「国策になびく学者」「電力会社」を論難しながら、新聞自身を棚上げして他人事の問題にしている点だ。「国策になびく学者」以上に新聞も「原子力の平和利用」になびいてきたのではなかろうか。出し遅れの証文か免罪符のように高木仁三郎氏の名が出てくるのもひっかかる。彼は地震や津波による原発事故を警告したのではなく、現在の科学技術では人間は原子炉を制御できないとして、ラディカルに原発を否定したのだ。

 新聞社の世論調査では原発推進への反対が賛成を上回っている。しかし、朝日新聞の原発に対する論調は「ノー」ではなく「イエス・バット」である。そもそも日本の原子力開発(平和利用)を引っ張ったのは新聞であり、その初期段階で二人の新聞人(読売新聞の正力松太郎氏と朝日新聞の田中慎次郎氏)が大きな役割を果たしている。
 このへんの事情は『科学事件』(柴田鉄治/岩波新書/2000.3)の第4章に詳しい。著者の柴田鉄治氏は朝日新聞の科学部長や論説委員を歴任した誠実な言論人である。柴田氏は本書で次のように述べている。

 〔バットの部分に多少の差はあっても、どの新聞の論調も「イエス・バット」だといって過言ではない。朝日新聞はそのなかで最もバットの部分が大きいとはいえるが、けっして「ノー」ではない。〕

 東電の想定が間違っていたのは確かだが、報道機関がそれをあらかじめ指摘できなかったとすれば、大きい筈の「バット」の重要な部分を把握できてなかったということである。つまり、新聞が自らの役割を果たせなかったことになる。
 本日の「天声人語」はそのような視点が欠けた、安全地帯からの言説である。しかも、なしくずし的・気分的に「イエス・バット」から「ノー」に移行しようとしているようにも見える。「ノー」に転換するなら、そのことを明示すべきだろう。

 高木仁三郎氏が健在なら、このようなメディアの状況をどう見ただろうか。若い頃に高木仁三郎氏から影響を受けながら、何となく「イエス・バット」になった私自身、忸怩たる思いである。