読んでから行くか、行ってから読むか2010年04月27日

『ルネサンスとは何であったか』(塩野七生著/新潮文庫)
 イタリア旅行を終えた後、塩野七生氏の『ルネサンスとは何であったか』を読んだ。本当は旅行に行く前に読むべきだったのかもしれない。旅行前には古代ローマへの関心がメインでルネサンスへの興味はあまりなかった。しかし、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマを駆け足で巡っているうちに「イタリアはルネサンスの国だった」ということをあらためて認識した。で、帰国してからルネサンスの本を読みたくなった。

 読みながら「旅行の前に読むより、旅行の後で読む方がいいな」と思った。旅行の前に真面目に「お勉強」として読んでおく方が旅行の体験は充実するだろう。しかし、旅行で現場を見た後で読むと、地名や寺院名などの固有名詞に具体的イメージが重なり、興味深く読み進められる。

 「旅行体験の充実」と「読書体験の充実」の二者択一なら、前者を優先すべきだと思える。しかし、旅行は大げさに言えば精神と肉体を総動員した全人的体験なので、いろいろな要素で充実させることができる。読書による妙な先入観がない方がいい場合もある。それに比べて、読書は頭の中だけの体験なので、いろいろな刺激要因がある方が面白い。だから、「行ってから読む」の方がいい。

 行ってから読んだ『ルネサンスとは何であったか』は歯切れのいい本だった。塩野七生氏は冒頭部分で、ルネサンスとは「見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発であった」と喝破している。わかりやすい断定だ。

 本書は「第一部 フィレンツェで考える」「第二部 ローマで考える」「第三部 キアンティ地方のグレーヴェにて」「第四部 ヴェネツィアで考える」の四部構成だが、その大半は第一部のフィレンツェが占めている。フィレンツェこそがイタリア・ルネサンスの町だからだ。十五世紀後半、この町では多数のルネッサンス人が活躍していた。著者はその様子を次のように描いている。

 「まったく、その間に活躍した芸術家たちの名をいちいち記すのも、嫌になってくるくらいに輩出する。(中略)一世紀に一人生まれれば満足という天才が、丘に立てば一望できる程度の狭い市内で競い合っていたのです。次から次へと夜空に打ち上げられる華麗な花火の競演が、六〇年つづいたようなもの。」

 私はフィレンツェには2泊しただけだが、この文章を読むだけでルネサンスを体感した気分になった。確かにフィレンツェは小さな町で、地図を手に半日歩いているだけでも、同じ場所を何度も通ることになる。そして、ルネサンスの名残が町のいたる所にゴロゴロしている。限られた時間の見学だったウフィッツィ美術館でも、あまたの名画の前をスタスタと通り過ぎながら、ただドキドキと圧倒されるだけだった。

 ルネサンスは古代ギリシア・ローマ文化の再発見と言われているが、それまでの間、なぜ古代文化遺産が顧みられなかったのだろう。この疑問について、塩野七生氏は彼女の友・マキャベリがその著書で紹介した、彼女が惚れ込んでいる(?)カエサルの言葉「多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」を引いて説明している。それまでの人々はキリスト教の呪縛によって、見たくないと思っているものを見ることができなくなっていたというのだ。わかりやすい。

 次のような記述も卓見だ。
 「それに私は、哲学とはギリシア哲学につきるのであって、それ以降の哲学は、キリスト教と哲学の一体化という、所詮は無為に終わるしかない労力のくり返しではなかったか、と思っています。」

 「ローマ人の物語」と同じように、キリスト教との距離の取り方が塩野七生氏の著作の魅力のひとつである。

 そして、ダ・ヴィンチとミケランジェロという二大巨人への言及も面白い。「フィレンツェ的心眼の象徴的存在はダ・ヴィンチ、ローマ的心眼の代表はミケランジェロ」という言い切りや、「天才とは、こちらも天才になった気にでもならないかぎり、肉迫できない存在でもある」という心意気は、まさに作家のものだ。学者には真似できないだろう。

 本書巻末には著者と三浦雅士氏との対談が収録されていて、その対談で著者は日本のルネサンス学者たちとの関係の悪さについて語っている。よくわかるような気がする。