『葬式は、要らない』を読んで考えた2010年02月11日

 『葬式は、要らない』(島田裕巳/幻冬舎新書)を読んだ。
 先日、老母が亡くなり、葬式の手配を初体験したばかりで、自分自身の場合も含めて葬式のあれこれを考えはじめていた。そんな時に新聞の新刊広告で本書を見て興味をもった。近所の本屋数軒を回ったが入手できず、結局、新宿の紀伊国屋書店本店で入手した。この本、売れているのか発行部数が少ないのかは分からないが、時宜を得た企画だと思う。ちょうど、団塊世代が葬式について考えを巡らせる頃合なのだ。
 ……と書いていたら、本日(2010.2.11)の日経新聞に本書の5段広告が載っていた。「発売たちまち4刷。6万部!」とある。さすが幻冬舎、目の付けどころのよさでヒットしたようだ。

 近頃の新書はタイトル勝負だそうだが、『葬式は、要らない』は売れそうなタイトルだ。本書は「葬式に臨むにあたっての基本的な考え方、態度、方針」を得るための知見を概説したもので、葬式無用論の本ではない。著者は「まえがき」で次のように述べている。

 「新書という形にしたことにも意味がある。新書なら手軽に短時間で読める。身近に死者が出て葬式を待つあいだでも読み切ることができる。」

 その通りで、短時間で読了できる読みやすい本だ。しかし、私の実体験から考えても、身内が死んでから葬式を出すあいだの時間に本書を読了したとしても、その時点で新たに葬式の方針を検討するのは手遅れである。通常は、死の直後から葬式の実務はスタートし、バタバタと進行してしまうものだ。

 私の体験と本書によってあらためて考えたことは、檀家という制度の命運だ。
 私も両親も東京に住んでいるが、岡山県の田舎に菩提寺がある檀家だ。そこには先祖からの墓がある。私の祖父母の代までは寺とのつきあいも深かったようだが、両親の代からは寺と疎遠になっている。しかし、檀家をやめたわけではない。両親は田舎の墓に入るつもりだったので、老母の葬式(家族葬)にあたっては、田舎の寺に連絡した。住職は「最優先で行きます」と言って、別の坊さんと二人で東京まで来て、通夜と告別式にお経をあげた。当然のように白木の位牌に戒名も書いた。
 老母は生前「戒名はいらない」と言っていたらしいが、「田舎の墓に入る」とも言っていた。私は「戒名なしで寺の墓に入る」というのは無理そうだと考え、あえて寺とは交渉しなかった。本書を読んで、あらためて日本の葬式仏教に独特の戒名というものを認識した。寺に墓のある檀家が戒名なしで墓に入るのは簡単ではなさそうだ。

 田舎から都市への人口移動や核家族化による「家」の消滅は時代の流れであり、私のように、檀家という意識が希薄になり寺と疎遠になっていくのは必然だろう。寺にとっては、檀家を失うのは経済基盤に関わることなので、檀家をつなぎとめる努力をするだろう。しかし、仏教徒としての自覚のある人ならともかく、一般の人にとっては葬式仏教の寺を鬱陶しく感じることも多いはずだ。
 島田裕巳氏は本書で「檀家という贅沢」を指摘をして、葬式仏教の実情を解説している。贅沢と言われても、檀家の末裔は必ずしもそんな贅沢を望んでいるわけではないのだから、世の中は変わらざるを得ないだろう。

 本書において著者は『葬式は、要らない』と主張しているわけではない。著者自身は「あとがき」の末尾で次のように述べている。

 「自分自身のことを考えてみても、死んだとき、どうしても葬式をして欲しいとは思わない。戒名については、本文中でも述べたように、俗名で葬られるのが我が家のしきたりにもなってきている。別に自分から指図をするつもりはなく、すべては家族に任せたいと思うが、その頃には、葬式無用の流れはいっそうはっきりしたものになっているに違いない。」

 葬式は、本人のためではなく残された者のため、と考えると「すべては家族に任せたい」という述懐もわからなくはない。しかし、このような刺激的なタイトルの本ならば、せめて「自分の葬式については、生前に自分で決めなさい」と言ってほしい。

 島田裕巳氏の態度がこのような曖昧なのは、ご本人の葬式事情がうらやましいぐらいにフリーなのだからだと思う。
 本書によれば、昔、著者の祖父が亡くなったとき、高額の戒名料を取る菩提寺に不信感をもった祖母は戒名を拒否し、住職がそれを受け入れたので、その後は祖母も父も俗名で葬られているそうだ。本書でも述べられているように、一般には、戒名を拒否するということは檀家関係を解消することになるようだ。立派な祖母のおかげで、戒名の呪縛から解放されているのはうらやましい。
 また、その後の本書の記述によれば、著者は故郷の実家の墓を処分し、遺骨を都会にもってきて、檀家関係を解消しているらしい。ということなら、自分で戒名を作ることも俗名でいくことも自由だし、葬式の形態も自由だ。

 檀家意識が希薄になっている現状から考えると、檀家関係が自然に解消されていく状況も進んでいき、葬式の形も多様化していくだろう。だからこそ、これからは、自分の葬式の形は(しないことも含めて)本人が決めるべきだろう。
 私自身、自分の葬式について、まだ考えをまとめているわけではないが、ボケる前には、明確にしておきたいと考えている。人間、もうろくしてくると、しだいに考えがまとまらなくなってくる。もうろくを自覚する前の課題である。

コメント

_ 清雲 ― 2011年06月28日 13時36分

爆弾発言をします。人間死んだらば100%近い人は地獄へ逝くのです。地獄へ逝きたくない方は{得道}を受けることをお勧めいたします。詳しくは079・566・0424弥勒寺までTELされて下さい。世間では天国天国と言っているのは人間の都合で言っているだけなのです。真実と真相をしりたい賢明な方はどうぞ「得道」のことを知って下さい。知れば目からウロコであり葬式が無用であることがお解かりになることと思います・・・。一期一会、幸運をお祈りいたします。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
ウサギとカメ、勝ったのどっち?

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://dark.asablo.jp/blog/2010/02/11/4871681/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。