映画『ヴィヨンの妻』を観て太宰治ブームを考えた2009年10月25日

 映画『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』を観た。太宰治の世界の雰囲気をとらえた佳作だと思った。主演の松たか子も浅野忠信も好演である。私にとっては、アカデミー賞外国語映画賞を受賞した『おくりびと』よりは魅力的な作品だ。

 パンフレットによれば、『ヴィヨンの妻』『思ひ出』『灯籠』『姥捨て』『きりぎりす』『桜桃』『二十世紀旗手』などの太宰作品のエッセンスを絶妙なバランスで融合した映画だそうだ。太宰治の小説は学生時代に読んだきりで、内容を失念しているものも多いので、上記の短編を再読してみた。およそ四十年ぶりに太宰治を読んだわけだが、結構おもしろく読めた。

 今年は太宰治生誕百年で、ちょっとした太宰治ブームだそうだ。映画化作品も目白押しだ。それにしても、二十一世紀になって太宰治ブームが来るとは思わなかった。昨年、『蟹工船』がブームになったのにも驚いたが、太宰治ブームは『蟹工船』ブームとは少し違うだろう。小林多喜二の『蟹工船』は有名作ではあるが、やや異様な小説であり、昨年封切られた映画『蟹工船』は少々珍妙な作品だった。『蟹工船』がブームになったのは、作品の力と言うよりは、世相が求めたシンボルの役割を担ってしまったからだろう。太宰治が現代の若者に読まれているとすれば、やはり、その作品に彼らを惹きつける魅力があるからだと思う。

 私が生まれたのは、太宰治が死亡した約半年後である。だから、私たち団塊世代にとっては同時代の作家ではない。しかし、私たちにとって特殊な位置を占める特別な作家だった。高校の図書館の太宰治全集だけは手垢に汚れていた。太宰治の読者やファンは多かったはずだが、太宰治を語ることを恥ずかしいと感じる者も多かったと思う。

 高校生の頃、私は奥野健男の『太宰治論』を角川文庫版で読んだ。奥野健男は1926年生まれで私より22歳年長だが、『太宰治論』は奥野健男が二十代に書いた実質的なデビュー作である。この評論の初めの方に次のような記述がある。
 「ぼくたちは太宰が好きなら好きと真向から叫んでよいのです。」「実際ぼくらの世代に与えた太宰の影響は、一時代前、芥川龍之介や小林秀雄がその時代の青年に与えたそれよりも、更に深いものがあると思われます。」「太宰文学は多くの青年の精神の形成過程に抜き難い深い影響を与えているのです。それはほとんど決定的なものであるにかかわらず、しかし皆はその事をむしろ隠そうとします。余りにも身近なのです。太宰のことを言われるのは自分のことのように羞しいのです。」
 これらの件りは印象的だった。また、奥野健男と親交のあった同世代の作家・三島由紀夫の太宰治に対する近親憎悪的な反発も印象的だった。

 私たちの世代は奥野健男や三島由紀夫の世代より二十年以上若いが、太宰治に対する感覚は彼らとあまり変わらないように思われる。太宰治は読者に対して、その劣等感と優越感の両方を刺激し、あたかも自分自身の内側を見ているような気にさせる作家だ。しかも、意外に作品群は多様で、読ませる力をもっている。端的に言えばおもしろい作品が多い。
 今回、太宰治の短編をいくつか読み返して感じたのだが、太宰治の小説の魅力はかなり普遍的なのかもしれない。生誕百年でブームが起きているように見えるが、この四十年ほどの間も、太宰治作品は継続的に一定の数の若者読者を惹きつけてきていたのだろう。

 どこで読んだか失念したが「外国語に翻訳された太宰作品を読んだ外国の読者には、太宰作品をドストエフスキイの作品のように感じる人がいる」という趣旨の文章を読み、少し驚いたことがある。『カラマゾフの兄弟』が新訳によって多くの若い読者を獲得しているのも、太宰治ブームと通底しているように思われる。

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